このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
田原坂古戦場
〜美少年像〜
熊本市北区植木町豊岡の鹿児島本線と国道203号の間に田原坂公園がある。
田原坂古戦場
わが国最後の内乱、
西南戦争
の古戦場です。
熊本城
篭城軍を救援しようと南下する政府軍とこれを阻止しようとする薩軍が死闘を演じたところで、当時の田原坂は熊本市へ通ずる唯一の拠点であり、そのため明治10年(1877年)3月4日から17昼夜にわたり白兵戦が繰り広げられたのであります。
死傷者4,000余をだしたこの丘も、現在は公園化され、記念碑が建てられています。
熊本県
美少年像
平成2年(1990年)10月、植木町建立。
この美少年像は西南の役田原坂の戦いで散った若者たちすべての象徴である
雨は降る降るじんばはぬれる こすにこされぬ田原坂
右手に血刀左手に手綱 馬上ゆたかな美少年
昭和46年(1971年)、南こうせつとかぐや姫の「変調田原坂」という歌があった。
雨は降る降る蒲団はぬれる 越すに越されぬ安下宿
右手に質札左手に馬券 豊かに生きます美青年
田原坂「一の坂・二の坂・三の坂」
麓の豊岡眼鏡橋からの標高差は僅か80mの田原坂。一の坂、二の坂、三の坂と頂まで1.5Kmの曲がりくねった道が続く。この道だけが唯一大砲をひいて通れる道路幅(3m〜4m)があり、この坂を越えなければ官軍の砲兵隊は熊本へは進めなかった。また、薩軍にとっては生死を制する道である。ともに戦略上の重要地であり、この平凡な坂道が激戦の舞台となった。
熊本城からこの田原坂までくり抜いた凹道となっている。故に、前方の藪や左右の高所より銃撃を受けやすく、攻め難い要地であった。
志賀青研の句碑があった。
たゝかひのあとゝし花のちるばかり
平成8年(1996年)6月、建立。
大正2年生。俳句を
高浜虚子
門として. 花鳥諷詠の道を精励す。俳誌ホトトギス同人。日本伝統俳句協会参与。俳誌阿蘇当季雑詠選者。
勇知之文学碑
そこにはいつも故郷の山の力があった
昭和40年(1965年)11月16日、
水原秋桜子
は九州の旅に出る。
田原坂
大綿や古道いまも越えがたき
示現流守りし嶮ぞ烏瓜
西につづく山路わけ
入りて 二句
月一片篠原戦死の岨の上
吉次越狐の径となりて絶ゆ
『殉教』
秋桜子の句碑があったようだが、大雨で探せなかった。
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