このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

新年の旅日記

輪違屋〜歌舞練場記念碑〜
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島原大門 から輪違屋へ。


輪違屋

 輪違屋は太夫や芸妓をかかえていた由緒ある置屋で、元禄年間(1688〜1704)の創業と伝える。

 現在の建物は、安政4年(1857年)に再建されたといわれるが、その後増改築がなされて、明治4年(1871年)にはほぼ現在の姿になっていた。

 平面構成は複雑だが、大きく分ければ、一階南半分の居室部分と、一階北半分及び二階を占める客室部分からなる。中でも 二階の傘の間と紅葉の間が主要な座敷で、その襖や壁の斬新な意匠には目を見張るものがある。

 輪違屋は、建築的に質が高く、また古い置屋の遺構として貴重であり、昭和59年6月1日、京都市指定有形文化財に指定された。

京都市

通常は非公開である。

吉井勇 (歌人1886〜1960)


宝暦のむかしの夢は見は見つれ   勇

   夜半の投節聴くよしもなし

平成13年(2001年)11月、島原伝統保存会建立。

歌舞練場記念碑

 島原歌舞練場は、明治6年(1873年)上之町に島原女紅場(ニヨコウバ)として開設され、青柳踊や温習会が上演されていたが、同14年頃には衰微を極め、青柳踊等も頓挫した。その後景気の回復により、太夫道中が再興され、歌舞練場が常にその巡行の拠点としての役割を果たしていました。しかし、当初の歌舞練場は、狭隘にして、かつ貸座敷組合事務所との共用であったため、昭和2年(1927年)に中之町の現在地に移転し、本格的な劇場施設として新築された。それ以来、この新歌舞練場は、歌舞会にあたる養柳会が運営にあたり、歌舞音曲の練習発表の場として、毎年温習会が開催された。戦後の同22年以降は島原貸席お茶屋業組合の事務所としても使用されてきたが、平成8年(1996年)同組合の解散に伴い、歌舞練場を解体し、歌舞練場120余年の歴史を閉じることとなった。

 また天保年間の島原鳥瞰図によると、当地はもと稲荷社が鎮座していたことから、この大榎(オオエノキ)には、歌舞練場解体時までその根元に祠が祀られていた。約200年の樹齢を誇るがごとく、樹高は15米幹周りも2米となり、今なお神木としての威厳を留めている。

 ここに記念碑を建立し、花街の象徴であった歌舞練場と古木の由来を刻するものである。

角屋 へ。



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