このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2015年
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伊達政宗陣場跡
〜松窓乙二の句碑〜
白石市福岡蔵本字陣場の東北自動車道沿いに白石市立福島小学校がある。
「伊達政宗陣場跡」である。
関ケ原合戦直前の慶長5年(1600年)7月24日、家康側であった政宗は、西軍側である上杉家臣甘糟備後守清長の守る
白石城
を攻め落としたが、その時の合戦に本陣を構えた所である。
この地は白石城を真南にし周囲の眺望も良く、さらに包囲軍陣地をも一望にできる好位置にあり、白石川北岸の段丘上に構築された陣屋である。北側は小沢が東流し急崖をなし、台地はV字状をなし、西は地続きのため、巾5間、長さ59間の大土手を築き白石城に面する南側崖面には2・3段の平場を構えた総坪3,285坪の本陣である。
白石川沿いの石段を上ると松窓乙二の句碑があった。
鶴などはとしよるものをはるの山
『松窓乙二発句集』
に収録。
江戸文化爛熟期といわれた化政時代に奥羽俳諧四天王の第一人者と称された白石の生んだ俳人である。
乙二
は白石城下亘理町の千手院第十代の修験で、権大僧都岩間清雄法印の俳名である。父の九代清馨も俳人であったが、乙二は谷口蕪村を慕い、深く研究し、
蕪村
もまた「後代の俳諧この人よりおこる」と高く評価している。
乙二は温厚篤実な性格で、旅を好み江戸・越後・東北全土はもちろん北海道まで行脚、各地に門弟も多く「わすれず山の翁」と親しまれ、数多くの作品をつくっている。文政6年(1823年)7月9日、69歳で没している。
松窓乙二翁の墓があった。
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