このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
新年の旅日記
増田(宿)駅跡
〜衣笠の松〜
名取市増田の県道273号仙台名取線は奥州街道(陸羽街道)。
奥州路(奥州街道)
江戸幕府によって定められた五街道の一つ「奥州街道(江戸
千住宿
〜白河宿までの27宿の街道)」の白河宿以北に続く街道として、伊達政宗公による仙台開府後、本格的な城下町整備に伴う、「東海(街)道御改
(あずまかいどうおんあらため
」によって整備された、東北地方を代表する幹線道路の1つです。
この街道は、白河以北のため幕府も公式の名称をつけておらず、「奥州路」・「奥州道」・「松前道」・「江戸往還道」などと呼ばれ、岩沼市志賀の高橋徳太郎氏所蔵文書には、「大海(街)道
(だいかいどう)
」と記されたものもあります。仙台藩では、城下の
芭蕉の辻
を基点に北を「奥州道中」、南を「江戸道中」と呼び、「長町や中田の馬を増田まで、もの岩沼に槻木の土手、船迫恋しき人に大河原、変わらぬ色ちぎる金ヶ瀬、宮たちはさも白石の鎧越し斎川なれど越河の関」の「道中往来歌」でも親しまれています。
街道は、市内では中田宿から上余田、増田、飯野坂(花町)、植松(館腰)、南六軒、本郷を通って岩沼宿へと続き、一里(約4km)毎に仙台城下北目町の御礼場を基点とする一里塚が設けられ、松並木も植えられた幅3間(5.4m)の街道らしい景観を呈する大道でした。
参勤交代や領内巡視の武士をはじめ、商人、一般の人々、熊野三山、お伊勢参りなど多くの人々が往来した歴史を秘めた街道で、特に元禄2年(1689年)の「奥の細道」で有名な俳人松尾芭蕉が漂泊の旅を続け通り過ぎていったのもこの街道でした。
笠島はいづこ皐月のぬかり道 芭蕉
『奥州名所図会』(奥の細道 植松の里)
増田(宿)駅跡(名取郡北方検断屋敷跡)
増田(宿)駅は、慶長3年(1650年)2代藩主伊達忠宗公の時、奥州路(街道)の開通に伴い設置されました。町場の経営が始められてから元禄6年(1693年)頃までには、街道の中央に水堀が通り、所々に小橋がかけられ、両側には一軒屋敷(間口7間、奥行30間)と半軒屋敷(間口3.5間、奥行30間)などの、間口に対して奥行きの長い建物が建ち並ぶ街道が整っていきました。
増田(宿)駅には、長町からの人馬と荷物を中継する北町の名取郡北方検断役所(旧増田市民会館敷地)と、中田からのものを中継する本町の名取郡南方検断役所(増田2丁目1−25付近)の2ヶ所の検断役所が置かれ、交通の世話を行いました。
この北町検断を務めた菊池氏は、慶長6年(1601年)から幕末まで代々検断職を受継ぎ、幕末の菊池善茂氏は、肝入職も兼ね宿場全般の政務にたずさわりました。検断役所に附随した菊池邸の屋敷は、藩主の御参府(江戸に登ること)や御下向(所領にもどること)の際の宿泊や小休憩所にあてられ、明治時代には、増田近郊五ヶ村の「連合戸長役場」、明治22年に「増田村役場」、明治29年に「増田町役場」となりました。
また、同家は、明治9年・14年の明治天皇東北巡幸の際にも御休息所にあてられ、邸内にあった老松は「衣笠の松」として昭和41年に市の天然記念物に指定され、松の近くに建てられたの檜づくりの小殿は、平成8年頃まで増田神社境内に移築され保存されていました。
嘉永5年(1852年)3月22日、吉田松陰は中田宿から船迫へ。
二十二日 晴。驛を發す。増田・七千石・大内・岩沼・槻木
(つきのき)
を經て、舟迫
(ふなはざま)
に至る。仙臺以南は沃野漫々たれども、舟迫に至至れば左右の山勢稍迫り、阿不熊川其の傍を流る。
『東北遊日記』
衣笠の松
市天然記念物
衣笠の松
仙台藩政時代から明治にかけて名取郡の北方検断を勤めた菊地善蔵氏邸内(旧増田公民館敷地)の庭に繁茂していた古木の中に、樹齢数百年と思われる大傘の松(アカマツ)がありました。
この松は、明治9年(1876年)6月、明治天皇東北御巡幸の折、同屋敷の大傘の松の近くに設けられた行在所で天皇御一行が御休息の際、随行者の木戸孝允が詠んだ
大君の立寄りましし陰なれば衣笠の松とこそいうなかりけれ
という和歌によって「衣笠の松」と命名されました。
「衣笠松記念碑」
この時お供した
東久世伯爵
は「
ふたたびも君にすすめしかけ清み古井の水のむかしおもゆる
」と歌を詠んだとされているそうだ。
JR東北本線名取駅
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