このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2011年

御射山社〜芭蕉の句碑〜
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JR中央本線すずらんのさと駅前に大きな鳥居がある。


御射山神社の鳥居である。


御射山道古道は草に埋もれて通れない。

中央高速自動車道を超えて松並木の参道を行く。

蝮草がくっきり影を落としていた。


 富士見町指定史跡

御射山社

 ここに鎮座する御射山社(みさやましゃ)は、建御名方命と国常立命(くにとこたちのみこと)を祭神としている。

 中世には、この社のある通称原山の一帯は神野(こうや)と呼ばれる諏訪上社の社領で、上社の御射山御狩の祭事が行われていた。それは秋季の台風などが平穏に過ぎ、五穀が豊かに稔るように祈願する「風祭り」の意義をもつものであった。

 祭事は旧暦の7月26日から30日までの5日間にわたり、穂屋(ススキで囲った仮屋)を造営して大祝・神長官をはじめ多数の神官や武士などが参籠し、狩りを行って獲物を神に供え、豊作を祈願し、また流鏑馬(やぶさめ)などの武技競べも行われたと伝えられる。

 これらの祭事は鎌倉時代以降、内容の変化や戦乱などによる一時的な中断はあったものの、数百年間にわたって継承された。明治以降には庶民の民俗的信仰と結びついて幼児の健康祈願も行われるようになり、一般に「原山様」とよばれ、昭和初期までは草競馬や露天商も加わって賑やかな祭りであった。

 けれど、こうした祭事の舞台となった広大な神域も、明治中期の下原山入会地の分割によって10ヘクタールほどに縮小され、さらに太平洋戦争中の開墾と戦後の農地解放によって半減した。

 御射山神戸村は古くからこの祭事の賦役奉仕を受け持たされていたので、神社とはとくに密接な関係にあり、集落から社までの参道には立派な松並木が続いていた。それも時勢の推移につれて失われ、今では300メートルほどに残る老松が往時の様を伝えている。

富士見町教育委員会

御射山社


宗良親王の歌碑があった。


信濃なるほやのすゝきも打ちなびき狩の野辺をわくるもろ人

宗良親王は後醍醐天皇の皇子。

芭蕉の句碑があった。


雪ちるや穗屋の芒の刈殘し

出典は 『猿蓑』

元禄3年(1690年)、芭蕉48歳の時の句。

天保6年(1835年)7月、山亭一路建立。

 明和9年(1772年)7月29日、平橋庵敲氷は美濃行脚の途中で御射山社の祭事を見ている。

廿七日、信濃国に入る。けふハ、御謝山 の祭詣にとて老若打群行。雅ひひなひて興あり。宮居ところせきまて穂屋作りたる古代の有様おかしくいと□し

薄にもたゝしきたてゝ穂屋いくつ


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