このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
瀧廉太郎君像
〜朝倉文夫〜
大分市の
「遊歩公園」
に「瀧廉太郎
終焉之地
」の標柱がある。
史蹟
瀧廉太郎
終焉之地
大分の生んだ天才音楽家瀧廉太郎は、「荒城の月」「箱根八里」「豊太閤」「鳩ポッポ」など、矢つぎ早に不朽の名曲をのこして23才と10ヶ月の若さで、彗星の如く逝った。
この地は、彼が明治35年12月、ドイツ留学から帰朝し、病を養った稲荷町の自宅の跡である。養病半歳、明治36年6月29日遂に永眠した。
近くに朝倉文夫の「瀧廉太郎君像」があった。
人生は短し 藝術は長し
昭和25年(1950年)10月7日、除幕。
朝倉文夫
は瀧廉太郎と「竹田高等小学校」の同窓。
明治25年(1892年)1月、瀧廉太郎は大分県直入郡高等小学校に転入。
明治26年(1893年)、朝倉文夫は大分県直入郡高等小学校に入学。
明治27年(1893年)4月、瀧廉太郎は大分県直入郡高等小学校を卒業。
大分市民図書館コンパルホール分館の前に朝倉文夫の「生誕」像があった。
「私の旅日記」
のトップページへ
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください