このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記

吉野梅園〜臥龍梅〜
indexにもどる

大分県大分市大字杉原の県道25号臼杵上戸次線沿いに吉野梅園がある。

大分県百景臥竜梅」の碑があった。

昭和37年(1962)11月3日に選定された「大分合同新聞百景」にはない。

臥龍梅の由来

 建久3年(1192年)、京都堀川御所騒動のとき、禁裏守護の士、藤原信近が都を退いてこの里に来て住んだ。その一子近里は、孝心が深く天満宮を信仰した。ある日、近里は山に薪をとりに行き、過って右脛を折った。たまたま異相の翁に遭い、その教えにより築前(福岡県) 太宰府 に、17日間参籠した。満願の夜夢に貴顕の士が現われ梅花一枝を賜った。近里はこれを持ち帰ってこの地に挿し祈念しながら培養した。ところが不思議に、その枝は芽をふき日増しに成長し、近里の病もよくなった。

 これは孝行と敬神の念が天に通じ神明の加護によるものだといわれる。その後、梅樹は繁茂し幹はみな左に捻じれて地を這い丁度龍が地に臥した姿に似ているので臥龍梅と呼ばれるようになった。

 又、永禄3年(1560年)、正月 豊後国主 大友義鎮 公(宗麟)がこの地に遊覧し、饗応、あと鶴ヶ城主利光宗魚が観梅の宴を催した。宴たけなわのとき義鎮公は活花にしようと梅一枝を御用人湯布弥太郎に折らせた。その途端に弥太郎は気絶したが、暫くして我に返り「吾は、天満大自在天神なり。汝はこの地主たるが故に、この度だけは命は助くべし、今後一枝たりとも折るべからず。」と言って再び人事不省となった。義鎮公は己の無礼を謝罪し、取った枝で御神体を刻んで奉納し、神殿を造り供米を献じて年々祭りを怠らなかったと言う。

 ある時、府内(大分)城主 松平不騫公(第6代大給近儔)がこの宮に参拝し神園をご覧になり嘆称の余り

   よしの芳野かしこは桜ここは梅

とお詠みになった句を、後年 山田雅次郎氏(初代吉野村長)が句碑を建てた。

 又、松岡の俳人、安藤石友が安政6年(1859年)、この地で芭蕉忌の句会を開き芭蕉の句

   この梅に牛も初音と啼つべし

 の句碑を建てた。

吉野天満社


不騫の句碑


   旧府内藩主松平不騫公遺吟

よしの芳野かしこは桜ここは梅

   己丑春日山田雅建之

芭蕉の句碑


この梅に牛も初音と啼つべし

出典は『江戸両吟集』。

延宝4年(1676年)、芭蕉33才の句。

「私の旅日記」 に戻る



このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください