このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2011年
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勧成院
〜碑巡り〜
東大阪市豊浦町の国道308号沿いに勧成院という寺がある。
国道308号は暗峠。国道とは言っても、ハイキングコースになっている。
貞亨元年(1684年)3月、大淀三千風は奈良坂を越えてくらがり峠を下る。
○此彌生の序おかしく。笠置の窟見めぐり。奈良坂越て生駒山くらがり峠をくたる。
『日本行脚文集』(巻之三)
勧成院に古い
芭蕉の句碑
があった。
菊の香にくらがり登る節句かな
出典は
『菊の香』
(風国編)。
寛政11年(1799年)12月12日、中村耒耜が建立。
勧成院と松尾芭蕉句碑
勧成院は、山号を梅龍山という日蓮宗の寺院です。室町時代の永正2年(1505年)に摂津国三島郡上牧(高槻市)の本澄寺の寺中として建立されましたが、明治27年(1894年)現在の地に移築されました。この地は、もと法華宗の善導庵という寺院がありましたが、同6年に廃寺となり、その跡へ移されたものです。
境内に入って右側に、寛政11年(1799年)12月12日に豊浦村の俳人中村耒耜
(らいし)
が建てた「菊の香にくらがり登る節句かな」の句碑があります。この句は、元禄7年(1694年)9月9日重陽、菊の節句に松尾芭蕉が伊賀上野から大阪へ向かう途中に詠んだものです。同年10月12日に
大阪
で芭蕉は亡くなりました。この碑は、もとは暗峠の街道筋にありましたが、山津波のため行方不明となっていたのを、大正2年(1823年)に発見され、ここへ移されました。境内には、文政8年(1825年)俳諧堂社中によって建碑された中村耒耜の句碑もあります。
また寺には、大正3年生駒トンネル開さくにともなう犠牲者63人の氏名を列記した過去帳が残され、当時の難工事をしのばせます。
東大阪市教育委員会
享和元年(1801年)、『河内名所図会』(秋里籬島)刊。
「椋嶺峠 芭蕉翁碑」
はせを翁の句碑を見て
匂ふ名の石ともなりて菊の露 籬島
近頃、寛政十一年己未十二月、豊浦村の耒耜、此句碑、椋ヶ嶺峠
(くらがねとうげ)
街道の側に建てゝ蕉翁の一百遠忌の追福とす。また諸方の俳師の句を聚めてこれを小冊とし浪花の二柳の序ありて菊の香と題号せり。
『河内名所図会』
中村耒耜の句碑
流るれば細き音あり山清水
文政8年(1825年)6月、俳偕堂社中建立。
耒耜は豊浦村の中村四端。
二柳
の門人。俳偕堂を主宰。
国道308号を上る。
歴史街道
暗越・奈良街道(国道308号)は河内平野を横切り生駒山の暗峠(標高452メートル)越えで難波と大和を最短距離で結ぶ古道です。
日下の直越えの道とともに古代から利用され、近世には伊勢参りで賑わい、峠道には宿屋や茶店もありました。井原西鶴の『世間胸算用』にも登場します。
近鉄奈良線の開通(大正3年)などで様変わりし、今はハイキングコースとして親しまれています。
再建された松尾芭蕉の句碑があった。
菊の香にくらがり登る節句かな
江戸時代の俳人であり、紀行本『奥の細道』の著者として有名な松尾芭蕉は、(1644〜1694)は伊賀国で生まれ、生涯を旅に過ごしました。
元禄7年(1694年)、病をおして伊賀を発った芭蕉は、旧暦9月9日の重陽の節句(菊の節句)に奈良から大坂に向かって暗峠を越えました。 その時詠まれたのが「菊の香に くらがり登る 節句かな」の句です。この暗峠越えが芭蕉最後の旅となり、大坂に入って間もなく、10月12日に亡くなりました。
その後、芭蕉の百年遠忌を契機に、蕉風復古の気運が高まり、寛政11年(1799年)地元豊浦村の中村耒耜
(らいし)
によって、暗峠の街道筋に「菊の香に ……」の句碑が建てられましたが、山津波により倒され、いつしか行方がわからなくなっていました。
このままでは芭蕉の旧跡が忘れ去られるとの想いから、明治23年、俳句同人六郷社の有志によって、自然石の表面に大坂の豪商平瀬露香の筆により再建したのが、この句碑です。
いっぽう、行方不明になっていた元の句碑はその後村人らによって発見され、3つに折れていた細長い石材を接合して大正2年(1913年)に西方の日蓮宗勧成院境内に移設されました。これが現在市の文化財として指定されている松尾芭蕉句碑です。
このような経緯により、暗峠奈良街道の近接する場所に芭蕉の同じ句を刻んだ石碑が残されることになりました。
東大阪市
山口誓子
は暗峠に芭蕉の句碑を訪ねた。
「河内名所図会」には、峠道のかたわらに芭蕉の句碑が立っていたと記されている。いま地蔵堂のあるあたりに、句碑らしき石が立っている。
菊の香にくらがりのぼる節句かな
の句碑だ。建立は寛政十一年。しかしいまはない。
その後、建てられたその句碑は、暗がり峠から下りて来た枚岡市にある。古いのが勧成院に、新しいのが法照寺に。
(中略)
橋を渡って坂道を朱塗りの寺塔へ下りて行く。それが法照寺だった。なおも坂道を下りて行くと、境内の外れに句碑が立っている。自然石。
菊の香にくらがりのぼる節句かな
「菊の香」と真中に、「くらがりのぼる」と右に、「節句かな」と左に。あっちこっちに書いてある。彫りは深い。
芭蕉が奈良側から七曲りの道を暗がり峠へ登って来たのは、重陽の節句の日で、山畑に菊の香が匂っていた。山道は木が繁って暗かった。
句碑は明治二十二年建立。
(中略)
訪ねる勧成院は坂道の途中、右側にある。タクシーを停めて、寺に入る。右手ひっこんだところに細長い句碑が立っている。
菊の香にくらがり登る節句哉
この方が古いのである。古いけれど風情がない。橋杭のような細長い句碑だからだ。
『句碑をたずねて』
(浪華・兵庫)
文化2年(1805年)11月4日、大田南畝は暗峠を越える。
いこま山に日出るに、くらがり峠もたどる。まして見るがうちに又くもりて雨ふる。
『小春紀行』
昭和42年(1967年)2月1日、枚岡市は、布施市、河内市と合併して東大阪市となった。
「私の旅日記」
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