このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
俳 人
勝見二柳
二柳の句
名は充茂。
桃妖
に俳諧を学び桃左と号し、のち桃居と改めた。
なほ見ばや接穂の桃の花ざかり 桃妖
暮柳舎希因の門に入り、二柳と改号。不二庵。三四坊。
可都里
『名録帖』
に「二柳
大坂河原町八百屋町東南門
不二庵」とある。
享保8年(1723年)、加賀山中に生まれる。
宝暦6年(1756年)春、
竹阿
は門人呉江を伴って北国路を歴遊、金沢の麦水 を訪れる。麦水に二柳への手紙を託された。
明和のころ、阿波藩に仕えていた子息を頼って徳島を訪れる。
徳島市の
滝薬師
に不二庵二柳の句碑がある。
散るたびに心をさそう桜かな
明和3年(1766年)秋、竹阿は阿波の徳島で二柳に会い、その責を果たす。
○対三四坊辞
十年の昔、賀の金城に旅寐する折から、犀川の麦水曰、「爰に三四坊といへる者あり。風雲にまかせて今其止る所をしらす。杖を曳の先にまみへは、故郷に母あり、頓に旧里に帰らん事をすゝめくれよ」と切に約せしに、予も東西に漂泊して有しか、其所をしらす。ことし不知火の帰さ鳴戸一見せんと、阿波の徳嶌に来りてまみゆる事を得て、往事を盡すに其事果しぬれと語り合ふて、互の無事をよろこふ。
十年の噺に足らぬ秋の日そ
『其日くさ』(竹阿編)
明和8年(1771年)、49歳の頃大阪に定住。
難波の春に御移りの由致安堵候
あしからぬ便りや浦も三つの朝 琴路
安永2年(1773年)頃、遊行寺 で芭蕉忌会式俳諧を始める。
天明3年(1783年)3月12日、二柳庵桃居社中は
芭蕉の句碑
を建立。本堂に芭蕉木像を納めた。
絶筆句
旅に病んて夢は枯野をかけ廻る
二柳の句が刻まれている。
とし経ぬるこゝろはせをやわすれ霜
天明3年(1783年)4月、上洛した折に
蕪村
宅に1泊している。
寛政4年(1792年)冬、
『吐雲訪問句画帖』
浪花散人不二菴序。
寛政10年(1798年)、二条家から中興宗匠の称号を許される。
寛政12年(1800年)秋、茅渟奇淵は
芭蕉「松風碑」
を建立。
松風の軒をめぐりて秋くれぬ
碑陰に不二庵桃居の「正風宗師松風碑賛」が記されている。
をしてるやよし芦のなに波江に
影うかふせの昔ゆかしき
いしふみの石まつかせの松
こゝに翁のあとは絶せし
芭蕉三世劣孫 不二庵桃居誌
寛政12年(1800年)11月25日、大江丸は184日の旅を終えて大坂に帰る。
大江丸老翁の東武よりつゝがなき登坂を待うけたり。其勇健
いやはや言語同断
口でこそ申せ八十雪のたび 不二菴
『あがたの三月よつき』
享和3年(1803年)3月28日、81歳で没。
廿六日 雨 二柳没 三月廿八日
『享和句帖』(享和3年4月)
大阪市の
梅旧院
に「不二庵二柳墓」がある。
文化元年(1804年)3月、二柳の一周忌に「不二庵之碣」を建立。
俳諧作主 不譲芭蕉 門徒数千 厥猷孔昭
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