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俳 人

小林竹阿

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享保末年頃、 長谷川馬光 に入門。別号二六庵、北窓庵。

 宝永7年(1710年)、竹阿生まれる。

 寛延4年(1751年)3月、 白兎園宗瑞絢堂素丸 、石中堂斑象、 雪中菴蓼太 、北窗菴竹阿『続五色墨』刊。

 宝暦6年(1756年)春、竹阿は門人呉江を伴って北国路を歴遊、金沢の 麦水 を訪れる。麦水に 二柳 への手紙を託された。

 宝暦13年(1763年)、道後円満寺で 各務支考 の三十三回忌に出席。「法莚序」を書いている。

   桜は碑に名高く   碑は桜に名高し

此道のひとへにしたれ桜かな

『其日くさ』(竹阿編)

 明和3年(1766年)秋、竹阿は阿波の徳島で二柳に会い、責を果たす。

   ○対三四坊辞

十年の昔、賀の金城に旅寐する折から、犀川の麦水曰、「爰に三四坊といへる者あり。風雲にまかせて今其止る所をしらす。杖を曳の先にまみへは、故郷に母あり、頓に旧里に帰らん事をすゝめくれよ」と切に約せしに、予も東西に漂泊して有しか、其所をしらす。ことし不知火の帰さ鳴戸一見せんと、阿波の徳嶌に来りてまみゆる事を得て、往事を盡すに其事果しぬれと語り合ふて、互の無事をよろこふ。

   十年の噺に足らぬ秋の日そ

『其日くさ』(竹阿編)

 明和7年(1770年)、竹阿は関西に移る。

 安永4年(1775年)、小西滞河は二六庵竹阿の指導で 早苗塚 を建立。「俳諧二つ笠」



 天明7年(1787年)春、江戸に帰る。

天明7年(1787年)11月、 小林一茶は既に竹阿の門人であったようだ。

天明七申霜月吉日 二六菴於机下

『白砂人集』(奥書)

寛政2年(1790年)3月13日、竹阿は80歳で没す。

寛政二年三月十三日没

   病中

鶴に乗術(てだて)もあらば花の山


   竹阿追悼

江戸へ植て散るや枕のやま櫻

『素丸發句集』

一茶は『其日くさ』(竹阿編)を書写。

竹阿が没すると、4月7日、一茶は 素丸 に入門。

 一茶 二六菴 小林菊明

 信州善光寺に住し、寛政二年戌四月七日入門。後判者にすすみ、竹阿の号を称し、文化年中一派の規矩を過つによつて、白芹翁永く風交を絶す。奥羽紀行あり。

『葛飾蕉門文脈系図』

 寛政4年(1792年)3月、一茶は江戸を立って西国行脚に赴き、二六庵竹阿 の弟子をたよって四国・九州を巡歴する。

 文化3年(1806年)3月13日、小林一茶は竹阿の十七回忌で 長応院 に参詣している。

長応院


十三日 むら雨 南風吹

   竹阿十七回忌 長応院に参る

      ○古き日を忘るゝなとや桜咲

『文化句帖』(文化3年3月)

 『葛飾蕉門文脈系図』に「大坂にて没す」とあるが、竹阿は江戸で没し長応院に葬られていたのである。

竹阿の句

元日や野分の跡の朝日かけ


追善追善

月日計いと恨しは昔の事にして古園の風流当今の白兎主人にさかん也

其道は色かえぬ松と残りけり


風流の星またひとつ天の川


大男我か遊ひ歟いかのぼり


椎柴にむせぶもうれしはつ時雨

『享和句帖』(享和3年10月)

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