このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
今年の旅日記
琴弾八幡宮
〜早苗塚〜
観音寺市八幡町に琴弾八幡宮がある。
源平屋島合戦の由来
源平屋島合戦
は「吾妻鏡」によると寿永4年(1185年)2月19日から3日間の戦いだったとされている。ここ琴弾山がこの合戦で源氏の勝利にゆかりの地であることを知る人は少ない。
屋島の戦いは源氏が優勢のうちに進められていた。平家水軍の総大将、能登守教経は、起死回生の作戦として伊予大洲城主、田口左衛門教能が伊予路の源氏勢を平定したあと一千騎をひき連れての到着を待って、屋島沖から手勢を加えて一挙に源氏勢をはさみ討ちにする事を考えていた。
この作戦は順調に進んだかに見えたが、智将
義経
は夢の中に見えた教経の幻影からこの作戦を見破っていた。
屋島の源氏勢250騎にとって敵一千騎の援軍では勝ちめのないことを知った義経は、腹心伊勢三郎義盛に命じ、田口勢が屋島に到着する前に説得によって食いとめることをはかった。
源氏興亡を双肩にした義盛は、手勢16騎とともに、万一ときは討ち死にを覚悟でよろいの下に白装束を着込んで浜辺伝いに西にとんだ。
義盛が田口勢と出あったのがこの琴弾山だった。20騎足らずの敵に気をゆるした大将田口左衛門教能は、義盛の申し入れに応じ、太刀を外して十王堂の一隅で相対した。義盛の言葉は、屋島の合戦が源氏に勝運がほほえみ平家方の多くは討ち死にするか捕われの身となったこと。そのなかで教能の父阿部民部重能も武運を察して降参したということだった。
義盛の命がけの熱弁にまどわされた教能は「父捕わる」に心は大きく動揺した。「一門ことごとく打ち破られてはこのうえ戦っても無益なこと、屋島の戦いに間に合わなかったのが武運のつき…」と田口一千騎はこの地で源氏の軍門に降った。
まもなく敗れた平家の残党は屋島から海路、新三位中納言知盛の待つ長門彦島(下関市)に向って落ちて行った。時に21日の夕暮れだったという。
琴弾八幡宮に今も残っている「木の鳥居」は、屋島戦勝のしるしとしてその後源氏の側近が義経に代って奉納したとも伝えられる。
観音寺市
右に石の鳥居がある。
承応2年(1653年)、
丸亀城
主山崎虎之助治頼公が寄進。
381段の階段を上がると本殿があるそうだ。
鳥居の右手に早苗塚があった。
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早苗とる手もとやむかし志のぶ摺
出典は『奥の細道』。
元禄2年(1689年)5月2日(陽暦6月18日)、芭蕉が
文知摺石
を眺めて詠んだもの。
安永4年(1775年)、
二六庵竹阿
の指導で小西帯河が所持していた芭蕉直筆の短冊を神霊にして建立。
早苗つかむ手もとやむかし忍ぶ摺といふ祖翁の眞蹟を予家に傳へり、これを神靈と崇めて早苗塚と呼ぶ。今より年々皐月十二日を早苗會と号して其徳化を仰ぎ、蕉風のながれ清く怠轉なからせまじと連中香花を捧げ頓首百拜して法莚を興行する物ならし。
安永四年
山幸舎 帶河
「早苗塚序」
香川県最古の芭蕉句碑である。
小西帯河は二六庵竹阿の門人。
享保12年(1727年)、豊田郡観音寺町に生れる。
明和元年(1764年)10月、近畿に遊び、蝶夢等と風交。「華洛日記」
安永4年(1775年)1月24日、宗鑑二百年忌を営む。「梅のむしろ」
天明2年(1782年)、歿。享年55。
天保10年(1839年)、再建。
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