このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2010年
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関大明神社
〜山崎宗鑑〜
島本町山崎に関大明神社がある。
関大明神社
島本水の文化園
関大明神社
当社のはじまりは不明であるが、当地が古代摂津国と山背国(後の山城国)の関所である山崎の関の跡といわれ、関守神または辻神を祭ったのが起こりではないかと思われます。 この関所は当時、交通の要であり、時には朝廷が兵を派遣し守らせるほど重要なところでした。 しかし、平安時代のはじめころには関は廃止されていたらしく、その跡地には関戸院という施設が置かれ、藤原道長や平家一門など貴族や官人の宿泊に利用されていたようです。現在の本殿は室町時代中ごろに建てられたと思われ、大阪府の重要文化財に指定されています。祭神は大己貴命
(おおなむちのみこと)
・天児屋根命
(あめのこやねのみこと)
、又は大智明神
(だいちみょうじん)
。
島本町
関大明神社の北側に山崎宗鑑の屋敷があったらしい。
島本水の文化園
山崎宗鑑
山崎宗鑑( 〜1553)は『新撰犬筑波集』を撰集し、俳諧の創始者として知られ、其の名が示すように山崎の地に一時住んでおりました。当時第一級の文化人たちとともに活動しており、没後も彼を偲びこの地を訪れた人も多く、松尾芭蕉もその一人で西遊の途中立ち寄り次のような句を詠んでいます。
ありがたきすがたおがまむ杜若
宗鑑の屋敷は江戸時代に描かれた絵図などによると関大明神社の北側あたりとされ、近くには「宗鑑井」と伝えられる井戸が今も残っています。
島本町
旧家の門前に
芭蕉の句碑
があった。
ありがたき姿おがまむ杜若
出典は
『泊船集』
。
「
山崎宗鑑か舊跡
」と前書きがある。
『蕉翁句集』
には「
元禄元辰卯月山崎宗鑑やしき近衛とのゝ宗かんがすかたを見れは餓鬼つはたと遊しけるを思ひ出て
」と前書きがある。
貞亨5年(1688年)4月23日、芭蕉は
西国街道
を通り山崎宗鑑の屋敷跡を経て、京に入る。
廿一日布引の瀧に登る。山崎道にかゝりて、
能因
のつか・金龍寺の入相の鐘を見る。「花ぞ散ける」といひし桜も若葉に見えて又お
(を)
かしく、山崎宗鑑屋舗、近衛どのゝ、「宗鑑がすがたを見れば餓鬼つばた」と遊しけるをおもひ出て、
有難きすがた拝まんかきつばた
と心の内に云て、卯月廿三日京へ入。
雖猿宛書簡(貞亨5年4月25日)
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