このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記

広沢寺〜広沢寺の蘇鉄〜
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名護屋城 の山里丸に広沢寺という寺がある。

広沢寺の石垣


山里丸 太閤居館跡

 国道からこの一帯を「山里丸」といい、ここは 秀吉 が在陣中居住していた跡です。

 その広さは約30,000㎡で、本城の本丸、二の丸、三の丸と共に重要な部分を占めていました。

 この一帯に数寄屋(257㎡)添の間(360㎡)上台所(80㎡)などの大家屋が建ち並んでいました。これらの建物やその装飾も全部各国に割りつけて建築させ、その美を競ったといいます。

 現在の広沢寺の建物は、大正年間の改築であります。

広沢寺


天然記念物 広沢寺の蘇鉄


この蘇鉄は文禄慶長の役(1592—1598)明及び朝鮮戦役にあたり当名護屋在陣中の太閤秀吉公に加藤清正外征記念として持ち歸りしものを手植せしと伝えています。樹高は約3メートル、根廻り約2.5米高さ3米主要分枝が40本以上で1本小樹林を呈する珍らしいもので県内代表的な名木の1つです。広沢寺は太閤居館の跡で当時は淀君、松の丸殿、広沢局等の女性と共に住んで居られた。太閤は慶長3年8月18日戦役中没せられ、公の遺命に依って外戦軍は同年10月全軍引上げ各々国へ帰りました。

広沢局はその時26才の若さで意に決するところ有って黒髪をたち尼となって太閤を始め兄越前守や戦没者の冥福を祈り60余才で亡くなりました。局の墓は寺山麓に東西し苔むした五輪の搭です。太閤遺髪塚は当地出身の今井安信氏の篤志にて建立されたものです。

広沢寺は広沢局の名をそのまま寺号とし、 曹洞宗 に属します。

御本尊は局生前中の念佛観世音菩薩を奉安してあります。

頌   云

誰知豊公寵姫名   剃髪染衣守節誠

万緑叢中紅一点   生涯不絶梵音声

蘇鉄に隠れるように芭蕉の句碑があった。


古池や蛙とひこむ水の音

出典は『蛙合』(仙化編)。

貞亨3年(1686年)春、 深川芭蕉庵 で詠まれた句。

芭蕉43歳の時である。

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