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私の旅日記
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2012年
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岩槻城城門
〜岩槻城址公園〜
さいたま市岩槻区太田に岩槻城址公園がある。
長禄元年(1457年)、
太田道灌
が岩槻に白鶴城を築く。
埼玉県指定史跡岩槻城跡
岩槻城は室町時代の末(15世紀中頃)に築かれたといわれています。江戸時代には江戸北方の守りの要として重要視され、有力譜代大名の居城となりました。
戦国時代には何回も大改修が行われ、戦国時代の末期には大幅に拡張されました。本丸・二の丸・三の丸などの城の中心部のある主郭部、その周囲を取り囲む沼の北岸に位置する新正寺曲輪、南岸に位置する新曲輪という、3つのブロックから構成されていました。さらに城の西側及び南側の一帯には武家屋敷と町家、寺社地からなる城下町が形成・配置され、その周囲を巨大な土塁と堀からなる大構が取り囲んでいました。
この岩槻公園あたりは、そのうちの新曲輪部分にあたっており、その大部分が埼玉県史跡に指定されています。新曲輪は戦国時代の1580年代に、豊臣政権との軍事対決に備え、その頃岩槻城を支配していた小田原北条氏が岩槻城の防衛力を強化するために設けた曲輪と考えられ、新曲輪・鍛冶曲輪という2つの曲輪が主郭部南方の防備を固めていました。
明治維新後、開発が進んで城郭の面影が失われている主郭部とは対照的に新曲輪部分には、曲輪の外周に構築された土塁、発掘調査で堀障子が発見された空堀、外部との出入り口に配置された2つの馬出しなど、戦国時代末期の遺構が良好な状態で保存されています。
文明18年(1486年)、道興准后は岩槻を通りがかり富士を見ている。
岩つきといへる所を過ぐるに、富士のねには雪いとふかく、外山には残んの紅葉色々にみえければ、よみて同行の中へ遣しける。
ふしのねの雪に心をそめてみよ外山の紅葉色深くとも
『廻国雑記』
岩槻城城門があった。
岩槻市指定文化財
岩槻城城門
この門は岩槻城の城門と伝えられる門である。岩槻城内での位置は明らかではないが、木造部分が黒く塗られていることから、「黒門」の名で親しまれている。
門扉の両側に小部屋を付属させた長屋門形式の門で、桁行(幅)約13メートル、梁間(奥行)約3.7メートルである。屋根は寄棟造で瓦葺き。
廃藩置県に伴う岩槻城廃止により城内より撤去されたが、昭和45年(1970年)城跡のこの地に移築された。この間、浦和の埼玉県庁や県知事公舎の正門、
岩槻市役所
の通用門などとして、移転・利用された。
修理・改修の跡が著しいが、柱や組材、飾り金具などに、重厚な城郭建築の面影を伝えている。岩槻城関係の数少ない現存遺構として貴重なものである。
岩槻城裏門
岩槻市指定文化財
岩槻城裏門
この門は岩槻城の城門である。岩槻城の裏門と伝えられるが、城内での位置は明らかではない。
現状では、門扉をつけた本柱と後方の控柱で屋根を支える薬医門形式となっている。間口約3メートル、奥行き約2メートルあり、向かって左側袖塀に門扉左に潜戸を付属している。屋根は切妻造りで瓦葺き。
左右の本柱のホゾに記された墨書銘により、江戸時代後期の明和7年(1770年)に当時の岩槻城主大岡氏の家臣武藤弥太夫らを奉行として修造され、文政6年(1823年)に板谷官治らを奉行として修理されたことが知られる。数少ない岩槻城関係の現存遺構の中でも、建築年代の明確な遺構として貴重なものである。
廃藩置県に伴う岩槻城廃止後、民間に払い下げられたが、明治42年(1909年)以降、この門を大切に保存して来られた市内飯塚の有山氏から岩槻市に寄贈され、昭和55年(1980年)岩槻城跡のこの地に移築された。なお、門扉右の袖塀はこの時付け加えられたものである。
平成17年(2005年)4月1日、旧岩槻市はさいたま市に編入。
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