このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2007年
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旧
中山道桶川宿
〜島村家住宅〜
今日は中山道桶川宿を少し歩いてみることにする。
中山道桶川宿「曠原之景」
桶川宿は中山道六十九次のうち江戸から数えて
上尾宿
に次いで6番目の宿場。
JR高崎線桶川駅東口を出る。
「桶川駅入口」交差点から旧中山道を北に歩く。
島村家住宅
国登録有形文化財
島村家住宅
桁行6間、梁間3間の木造3階建ての土蔵で、江戸時代後期の天保7年(1836年)の建築と伝えられています。島村家は中山道桶川宿の本陣近くに店を構えた穀物問屋木嶋屋の総本家で、土蔵の屋根の両端にある鬼瓦には当時の屋号の一時を取った「木」の字が刻まれています。
また、この土蔵の建築工事は、天保の飢饉にあえぐ人々に仕事を与え、その報酬により多くに人が救われたことから、「お助け蔵」と呼ばれたとの伝承も残されています。
現在は、黒漆喰壁がトタンで覆われていますが、建築当時の島村家(木嶋屋)の勢いを感じさせる堂々とした土蔵です。
桶川市教育委員会
島村老茶舗
嘉永7年創業
蔵造りの商家「矢部家」
矢部家は木半の屋号で知られた穀物問屋で、かつて江戸時代に紅花商人としても活躍していたそうだ。
紅花
桶川の「紅花商人」のことは、うかつにも知らなかった。
旧旅籠「小林家」
文久元年(1861年)皇女和宮は第十四代将軍家茂の元に下向。和宮御下向の割書上には「吉右衛門」の名が記されているそうだ。
文久元年(1861年)11月13日、
皇女和宮
は桶川宿本陣に宿泊している。
桶川宿本陣
八代目当主府川甚右衛門豊義は
横田柳几
門の俳人。俳号は志風。
大雲寺
に桶川宿本陣を勤めた府川家の墓がある。
現在も府川家が暮らしているので、建物は公開されていない。
中山道宿場館
中山道に関する情報が手に入る。
中山道宿場館で話を聞いて、旧中山道を「桶川駅入口」交差点の南を歩く。
竹村旅館
中山道
旅籠
桶川宿には大名や公家などの宿泊施設である本陣、脇本陣のほかに、中仙道を往来する一般庶民の宿である旅籠が数多くあった。その数は、江戸時代末期の天保年間(1840年ころ)には36軒を数えたという。
ちなみに、当時上尾宿の旅籠は41軒。
この竹村旅館は宿場町当時の旅籠の姿を今にとどめる貴重な建物である。皇女和宮が中山道を下向した文久元年(1861年)には、ここで紙屋半次郎が旅籠を営んでいた。
図に示す当時の間取りは現在も引き継がれている。
桶川市教育委員会
寛政5年(1793年)9月4日、大雨。田上菊舎は桶川に泊まる。
四日終日大雨。桶川に昼時より止宿。明れば五日晴天、富士山等よく見へ、いと面白し。
野に山に錦みばへて富士の雪
『美濃・信濃行』
享和2年(1802年)4月6日、太田南畝は桶川宿で昼食。
又自是西北牧野大内蔵知行所、中山道足立郡桶川宿浅岡彦四郎代官所といふ傍
(榜)
示たてり。桶川の駅わびしき所也。ここにて昼の餉す。
『壬戌紀行』
文化11年(1814年)12月18日、一茶は柏原に帰る途中、
上尾宿
から遅れた同行者4人を桶川の武笠宗兵衛で待つ。
十八 晴 桶川武笠宗兵衛ニテ四人ヲ待
『七番日記』(文化11年12月)
「武笠宗兵衛」は脇本陣である。
一茶が江戸と柏原を往復するのは、いつも一人旅である。
同行者がいたのは、この時と文化5年(1808年)
草津に向かう時
だけ。
皇女和宮下向の47年前のことである。
旧跡
木戸址
南の木戸址、桶川宿には北の木戸址の碑もあるようだ。
天保2年(1831年)10月11日、渡辺崋山は「毛武」へ旅立ち、夜8時頃桶川に着いた。
かくせしほどに雨はふり、更たけて行先も見わけがたうなりにたり。辛うじて桶川といえるに着たり、夜戌の時程なりし。
「毛武游記」
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