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私の旅日記
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2008年
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鬼鹿毛の馬頭観音
〜芭蕉の句碑〜
JR武蔵野線新座駅北口から県道109号線(新座和光線)に出る。
県道109号線(新座和光線)は旧川越街道。
川越街道
川越街道は、川越往還と呼ばれ、江戸日本橋から、川越まで、約11里を結び、五街道と並ぶ重要な道でした。江戸時代、川越は、江戸の北西を守る要となり、藩主には、老中格の譜代大名が配置されました。又、家康以下、三代将軍も鷹狩や参詣にこの街道を往来し、松平信綱が、川越城主となってからは、さらに整備されるようになりました。
街道には、上板橋、下練馬、白子、膝折、大和田、大井の6か宿が設置され、人馬の往来が盛んでしたが、各宿場の村にとって、伝馬役の負担も大きかったようです。「新編武蔵風土記」によると、大和田町は、
郡の西にあり。江戸より六里余。村内東西を貫きて、川越街道一里許係れり。この街道を西行すれば、入間郡竹間沢村に至り、東行すれば、郡内野火止宿に至れり。
と述べられ、街道沿いには、人馬にまつわる伝説や道標が残り、往時の宿場のにぎわいが、しのばれます。
新 座 市 教 育 委 員 会
新座市文化財保護審議委員会
文明18年(1486年)、道興准后は
野火止
から膝折を訪れている。
これを過ぎて、ひざをりといへる里に市侍り。暫くかりやに休みて、例の俳諧を詠じて、同行に語り侍る、
商人はいかで立つらむ膝折の市に脚気をうるにぞありける
『廻国雑記』
県道109号線(新座和光線)沿いに鬼鹿毛の馬頭観音があった。
市指定有形民俗文化財。
鬼鹿毛の馬頭観音
昔、秩父の小栗という人、江戸に急用があって、愛馬鬼鹿毛に乗り道を急ぎました。大和田宿に入ると、さすがの鬼鹿毛も疲れが見え、この場所にあった松の大木の根につまずき倒れました。
しかし、さすがは名馬、ただちに起きあがり主人を目的地まで届けたといいます。所用を終えた主人が先ほど馬をとめたところまで戻ると、いるはずの鬼鹿毛の姿が見えません。不思議に思いましたが仕方なく家路を急ぎました。
やがて、大和田の地にさしかかると、往路愛馬が倒れた場所に鬼鹿毛の亡きがらを見つけました。鬼鹿毛は主人の急を知り亡霊となって走り続けたのでした。
村人は、のちに鬼鹿毛の霊を弔って馬頭観音を建てたといいます。これが「鬼鹿毛の伝説」です。
鬼鹿毛の馬頭観音は、元禄9年(1696年)に建立され、市内では最古・最大の石造の馬頭観音です。
像高は、約127cmで、三面六臂(3つの顔と6つのひじ)の丸彫立像です。
新 座 市 教 育 委 員 会
新座市文化財保護審議委員会
鬼鹿毛の馬頭観音
文化5年(1808年)5月25日、小林一茶は草津に向かう途中、膝折宿で鬼鹿毛について書いている。
脛
(膝)
折駅といふ有。昔鬼鹿毛といへる馬の脛折りし所といふ。いかなる逸物にやありけん、今の代迄里の名によぶ。彼畜生界にてもほまれなるべし。其屍を葬て、印を植て鬼かげ松といふ。
「草津道の記」
鬼鹿毛の馬頭観音には触れていない。
鬼鹿毛の馬頭観音の左に芭蕉の句碑があった。
花は賤乃眼にもみえけり鬼薊
出典は『続山の井』。
寛文6年(1666年)、芭蕉23歳の時の句。
鬼薊
嘉永5年(1852年)10月、東雲建立。
『諸国翁墳記』
に「
鬼□塚 武州新座郡大和田町 中
ノ
園東雲建之
」とある。
東雲は大和田宿中野の人。細沼忠兵衛。
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