このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

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種田山頭火の句碑

松から朝日が赤い大鳥居
春霜にあとつけて詣でる

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宇佐神宮 に参詣すると、参道に種田山頭火の碑があった。


   宇佐神宮

松から朝日が赤い大鳥居

春霜にあとつけて詣でる

   山頭火の書簡より(昭和4年)

十一月二十四日 大分県宇佐にて 松垣昧々へ

、 急にお寒くなりました。昨日は、四日市から当地まで来ました。神宮参拝、おのづから頭のさがるを覚えました。つゞいて大楽寺拝登。銀杏が美しく立つてゐたのが眼に残つてゐます。今日は高田へ出ます。第五番、第六番をうたなければなりませんから。・・・(後略)

十一月二十六日 豊後赤根にて 荻原井泉水へ

宇佐神宮は尊いところでありました、おのづから頭が下がりました、昨夜は山家に泊りまして、ひとりでしんみりしました。今日はしぐれる岩山を四つ越えました。両子寺、天念寺、椿堂、どれも岩山の景勝を占めてをります、このあたりは小耶馬渓とでもいひたい山間であります。・・・(後略)

   山頭火の日記より(昭和13年)

三月十七日 日本晴 宇佐

一片の雲影もない快さ、朝湯朝酒のうれしさ。いよいよ出発。宇平さん、二丘さん、眛々さん、ありがたう、ありがたう、ありがたう。(中略)途中、二三杯ひつかける、歩けなくなって宇佐までバス、М屋という安宿に泊る、よい宿であった、深切なのが何よりうれしい、神宮に参拝して祈願した、神宮は修理中。宇佐風景、丘、白壁、そして宇佐飴を売る店。(後略)

山頭火のレリーフ


自由律俳人・ 種田山頭火 、本名・正一 明治15年山口県防府市に生まれる。早稲田大学を病気中退し帰郷、結婚して父と酒造場を開業する。一方、 荻原井泉水 が創刊した新傾向俳句誌『層雲』に投句し入門、やがて同人・選者として活躍した。大正5年に酒造場は失敗、破産する。熊本へ移り無軌道な酒に浸って市電を止める事故を起こしたのを機に 出家得度 。九州をはじめ東北地方まで全国を行乞漂泊の旅を続けた。

ここ宇佐神宮には、昭和4年と13年に訪れており、禅僧でありながらも殊のほか敬虔なおもいで参拝している。

昭和14年四国霊場巡拝を終え、愛媛県松山市に「一草庵」を結んだが、昭和15年10月11日同庵に没した。

山頭火は、花鳥諷詠や季語を約束とする五・七・五の定型俳句とは異なり、「俳句といふものは・・・魂の歌だ、こころのあらはれを外して俳句の本質はない」と言い、その人生や俳句においても より真実なるものを模索し非定型を貫いた。行乞流転の旅にあって詠んだ数々の日本語独特な口語のリズムを生かした自由律作品は、いまも多くの人のこころを捉えている。

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