このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
正岡子規の句碑
戸澤藩船番所
草薙温泉
から国道47号で陸羽西線に沿って最上川を遡ると、戸澤藩船番所がある。
ここは
芭蕉ライン舟下り
の乗船地。
古口
(ふるくち)
本社港から草薙温泉港(最上川リバーポート)まで1時間。運賃は1,970円。
路線バスだと20分。運賃は300円。
元禄2年(1689年)6月3日(陽暦7月19日)、芭蕉は
本合海
(もとあいかい)
から清川まで舟で下った。
芭蕉が乗船した元合海は古口より「一リ半」上流にある。
〇三日 天気吉。
新庄
ヲ立。一リ半、元合海。次良兵へ方へ甚兵へ方ヨリ状添ル。大石田平右衛門方ヨリも状遣ス。船、才覚シテノスル。
一リ半、古口ヘ舟ツクル。合海ヨリ禅僧ニ人同船、清川ニテ別ル。毒海チナミ有。是又、平七方へ新庄甚兵ヘヨリ状添。関所、出手形、新庄ヨリ持参。平七子、呼四良、番所ヘ持行。舟ツギテ、三リ半、清川ニ至ル。酒井左衛門殿領也。
『曽良随行日記』
岩間乙二は古口に泊まっている。
板敷山の麓最上川の岸頭に。家居せる古口にやどる。
おろおろし闇の皐月の初月夜
『乙二句集』
正岡子規の句碑があった。
朝霧や船頭うたふ最上川
明治30年(1897年)8月30日、新聞「日本」の句。
『子規全集』(第二巻)の「寒山落木 巻五」に収録。
昭和31年(1956年)9月19日、建立。
明治26年(1893年)8月8日、子規は
大石田
から最上川を下り、古口の旅店に投じた。
本合海を過ぎて八面山を廻る頃女三人にてあやつりたる一艘の小舟川を横ぎり来つて我舟に漕ぎつくと見れば一人の少女餅を盛りたる皿いくつとなく持ち来りて客に薦
(すす)
む。客辭すれば彼益々勉めてやまず。時にひなびたる歌などうたふは人をもてなすの意なるべし。餅賣り盡す頃漸くに漕ぎ去る。日暮れなんとして古口に著く。下流難所あれば夜船危しとてこゝに泊るなり。乗合四人皆旅店に投ず。むさくろしき家なり。
明治40年(1907年)10月12日、河東碧梧桐は本合海から最上川を下った。
古口といふ子規子がむさき宿と記せし処なり
宿帳に大字落々と記す秋
『三千里』
古口より下流は所謂最上峡と呼ばれる峡谷で陸路がなく、全て最上川舟運に頼らねばならなかったそうだ。
大正2年(1913年)、陸羽西線新庄古口間開通、翌3年酒田迄開通。
昭和2年(1927年)10月、小杉未醒は「奥の細道」を歩いて、古口の宿に泊まっている。
古口と云ふ小驛で、新庄酒田間の夜汽車を降り、此邊に宿屋はありませんかと聞けば、驛長さんが、わざわざ出て来て、あれを突き當つて曲つて、それから左側に、かめ屋と教えて呉れた、突き當りは、雲すきに山の形が見えるばかり、
『奥のほそみち画冊』
昭和5年(1930年)7月24日、
斎藤茂吉
は陸羽西線で古口を通る。
芭蕉も元禄二年このあたり舟にて過ぎけむか
古口のほとりを過ぎてまのあたり親しくもあるか夏の最上川
『たかはら』
昭和36年(1961年)6月、
山口誓子
は古口の河畔で子規の句碑を見ている。
古口の河畔には子規の句碑がある。
朝霧や船頭うたふ最上川
「はて知らずの記」に載っていない。句集「寒山落木」にも載っていない。
『句碑をたずねて』
(奥の細道)
「はて知らずの記」の句は『寒山落木 巻二』に収録されているが、この句は『寒山落木 巻五』に収録されていた。。
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