このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
新年の旅日記
美保関灯台
〜与謝野鉄幹・晶子夫妻の歌碑〜
松江市美保関町美保関の美保関灯台へ行く。
嶋根郡
(しまねのこおり)
出雲国風土記が書かれた、奈良時代(西暦8世紀ころ)には、島根半島の東部は「嶋根郡」と呼ばれていました。これは、現在の八束郡美保関町、同郡島根町、同郡鹿島町の東部、松江市東部に当たります。
風土記の国引き神話では、ここ地蔵埼は「三穗の埼」と呼ばれ、出雲国の創始者八束水臣津野命(大国主命)が「高志の都都三埼」から切り取って引いてきた、とされています。「高志の都都三埼」は能登半島の石川県珠洲市と考えられています。実際に北陸地方との交流は盛んだったようで、出雲からは北陸地方から持ち込まれた土器などが出土しています。
嶋根郡は隠岐国へわたるルートとして重要な地でした。美保関町千酌には「千酌駅
(ちくみのうまや)
」が置かれ、船や馬が配備されていました。
島根県教育委員会
地蔵崎
灯台が霞んでいる。
大山隠岐国立公園島根半島の最東端に位置するこの岬は、晴れた日には日本海はるか沖に隠岐の島じまも望むことができます。
地蔵崎の東北約3kmの海面には「沖の御前島」と呼ばれる小島が浮かんでおり、「出雲国風土記」には、「等々島
(とどじま)
」と記されています。この島はその昔、美保神社の祭神である事代主命
(ことしろぬしのみこと)
が魚釣りを楽しんだところといわれており、現在でも、この島の周辺は絶好のつり場となっています。
また、境港と隠岐を結ぶ隠岐航路は、地蔵崎とこの島との間を通過しています。
地蔵崎園地からの眺望
地蔵崎は島根半島の突端にあるため、日本海の雄大な眺めと大山、美保湾が共に眺望できる数少ない場所です。
この展望デッキからは、日本海の雄大な眺めが一望でき、デッキ東側沖合3kmには、美保神社の祭神である事代主命が魚釣りを楽しんだ「沖の御前島」「地の御前島」や、晴れた日には、はるか沖に隠岐島を望むことができます。
また、デッキ西側には、島根半島の景観の特色でもあるリアス海岸を望むことができます。
島根県
雨模様で、何も見えない。
昭和5年(1930年)5月29日、
与謝野鉄幹・晶子夫妻
は地蔵崎を訪れている。
与謝野鉄幹・晶子夫妻の歌碑
地蔵崎わが乗る船も大山も沖の御前も紺青のうへ
鉄幹
地蔵崎波路のはての海の気のかげろうとのみ見ゆる隠岐かな
晶子
平成10年(1998年)11月、美保関灯台百周年記念事業実行委員会建立。
美保関灯台
〜山陰最古の灯台〜
島根半島の東端に位置するこの地は、その昔、航海の安全を祈願してたくさんの地蔵さんが祭られていたことから、地蔵埼と呼ばれております。
この灯台は、山陰地方では最古の石造りで、1898年(明治31年)に地蔵埼灯台として建設されました。当時の光源は、石油で1等レンズ(内径1.8メートル、高さ2.6メートル)が使用され、光度は67,500カンデラでありました。その後、大正11年には、光源が電化され、また、1935年(昭和10年)には地蔵埼の名称が全国的に多いことから、現在の「美保関灯台」と改称されました。1954年、1993年とその時代の最新鋭の灯器に改修され、現在はメタルハライド電球を使用する灯器となっています。(現在、初代の1等レンズは、大阪府岬町のみさき公園に、先代のLB90型灯器は隣接する美保関ビュッフェに展示されています。)1962年(昭和37年)には、無線監視装置の導入により無人化され、1998年(平成10年)には初点灯から百周年を迎え記念事業が行われ、歴史的施設の保安措置として耐震性向上の灯塔改修が行われました。そして百周年を祝うかのように、この年には「世界灯台100選」の一つとして選出されました。
この灯台は、船舶が安全に航行するための大切な施設です。この施設の異常を発見した場合や何かお気づきの点がございましたら、下記の管理事務所までお知らせ下さい。
管理事務所
第八管区海上保安本部
境海上保安部
海上保安庁 燈光会 日本財団
「地之御前」
美保之碕の由来
島根半島の最東端に位置するこの岬は、古くから「美保之碕」と呼ばれています。
出雲国風土記の国引きの伝説では、この「美保之碕」は北陸地方から、日御碕は朝鮮半島から引いてきたものと伝えられています。
この鳥居の中央約四キロ先の海上に浮ぶ島を「沖之御前」、眼下に横たわる島を「地之御前」といい、共に事代主神(美保神社のご祭神、俗にえびす様)の魚釣りの島として伝えられているところから、現在も美保神社の境内となっており、毎年5月5日には美保神社で事代主神とその御妃の御神霊をこの島から迎える神迎神事が続けられています。
夏期には、沖之御前の海上に雄大な日の出を拝むことができます。
沖之御前は日によってその島影が様々に変化し、漁師はその島影により海上の天候を知って出漁を決したといわれます。又、この島の海底には常に神楽の音の様な響があり神異奇瑞の島として今に伝えられています。
この遙拝所は、美保神社の古文書に記載のあった古事に基づき、昭和48年12月設置したものです。
駆逐艦ワラビ
『美保関のかなたへ』
昭和2年(1927年)8月24日夜、日本帝国海軍戦艦「長門」以下の連合艦隊60余隻は、美保関の北東32キロ付近の海上で2軍に分かれて戦闘訓練を行った。
おりから台風の接近で、雨が激しく降り、強風に波も逆巻くなか、両軍灯火を消して時速52キロの全速力で実践さながらの訓練であった。そのさなか駆逐艦「蕨」(850トン)の艦腹に巡洋艦「神通」(5,595トン)が衝突、「蕨」は裂け、沈没。艦長五十嵐恵少佐以下92名は艦と運命をともにした。その1分後には駆逐艦「葦」の艦尾に巡洋艦「那珂」が衝突し、「葦」の乗組員27名が海に消えた。
この2つの衝突による犠牲者119名。海軍史上、空前のこの事故に際し、美保関や境港の人々は献身的に捜索協力をしたが、収容された遺体は数体のみ。今も130メートルの海底には、「蕨」とともに多くの兵士が眠っている。
演習中に貴い命を失い「海の八甲田事件」といわれるこの惨事を、日本海軍は黙秘し続け、半世紀を経て、五十嵐艦長の子息五十嵐邁氏が克明に調査し、父君の非業の死の真相を一書に著すまで、その全容は明らかにされなかった。今日の日本がこうした犠牲のうえにあることを忘れないように、この記念碑を建立する。
平成18年(2006年)8月24日
日本海軍美保関沖遭難事件顕彰実行委員会
隠岐の島が見えるはず・・・。
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