このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

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石町時の鐘 鐘撞堂跡
〜「夜半亭−与謝蕪村居住地跡−」〜

 中央区日本橋室町4丁目の国道17号(中央通り)に「さくら室町ビル」がある。

「さくら室町ビル」の南側に「石町時の鐘 鐘撞堂跡」の案内板があった。


 時の鐘は、江戸時代に本石町3丁目へ設置された、時刻を江戸市民に知らせる時鐘です。徳川家康とともに江戸に来た辻源七が鐘つき役を任命され、代々その役を務めました。鐘は何回か鋳直されましたが、宝永8年(1711年)に製作された時の鐘(東京都指定文化財)が十思公園内(日本橋小伝馬町)に移されて残っています。

 鐘撞堂は度々の火災に遭いながら、本石町3丁目(現日本橋室町4丁目・日本橋本町4丁目)辺りにあり、本通りから本石町3丁目をはいって鐘撞堂にいたる道を「鐘つき新道」と呼んでいました。そのことにより、時の鐘が移設された十思公園までの道が平成14年3月に「時の鐘通り」と命名されました。

 近くの新日本橋駅の所には、江戸時代を通してオランダ商館長一行の江戸参府の時の宿舎であった「長崎屋」があり、川柳にも「石町の鐘はオランダまで聞こえ」とうたわれ江戸市民に親しまれていたのです。

中央区教育委員会

「夜半亭−与謝蕪村居住地跡−」の案内板


 夜半亭は、元文2年(1737年)に俳諧師早野巴人(1676〜1742)が「石町時の鐘」のほとりに結んだ庵である。「夜半ノ鐘声客船ニ至ル」という唐詩にちなみ、巴人も「夜半亭宋阿」と号しました。

 この夜半亭には、多くの門弟が出入りしていましたが、なかでも「宰町」と号していた若き 与謝蕪村 (1716〜1783)は内弟子として居住し、日本橋のこの地で俳諧の修行に励みました。

 蕪村は、安永3年(1774)年)巴人三十三回忌追善集「むかしを今」の序文で「師やむかし、武江の石町なる鐘楼の高く臨めるほとりにあやしき舎りして、市中に閑をあまなひ、霜夜の鐘におどろきて、老の寝ざめのうき中にも、予とともにはいかい(俳諧)をかたりて」と夜半亭での巴人との様子を記しています。

 寛保2年(1742年)巴人の没により、江戸の夜半亭一門は解散、蕪村は江戸を離れ、常総地方などを歴訪後、京都を永住の地と定めます。

 やがて、俳諧師としての名声を高め、画業においても池大雅と並び称されるほどになった蕪村は、明和7年(1770年)巴人の後継者に推されて京都で夜半亭二世を継承しました。

中央区教育委員会

夜半亭時代の蕪村自画讃


尼寺や十夜に届く鬢葛(びんかずら)

(『卯月庭訓』東京国立博物館所蔵)

 縁切り寺として有名な 東慶寺 で離婚成立の3年を迎えようとする女の許に関係浅からぬ男から、「そろそろ還俗だね」と鬢葛が届けられた。それは十日十夜にわたって行われる十夜法要の間だったという句意だそうだ。

大安楽寺 へ。

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