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私の旅日記2004年

志演尊空神社〜野菜の促成栽培発祥の地・砂村〜
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境川から清洲橋通りを行く。


志演尊空神社がある。


「志演」を「しのぶ」とはとても読めない。「志を演(の)ぶる」ということだそうだ。

御由緒

 寛永元年(1624年)、深川郷唐島開発の際当地に訪れた菅原長寛が村民の要請を受けて稲荷大神を鎮座して深川稲荷と社名を称し、土地の氏神としてあがめた。
 元禄年間(1688〜1703)、時の将軍徳川綱吉が お鷹狩り の途中で当社に参拝に立ち寄られ「民の志を演(の)ぶること殊勝なり」と賞して社名を志演神社と改名せられた。
 尊空親王は伏見宮邦頼親王(1733−1802)の御子にして寛文3年(1663年)12月関東に下向、深川五本松にて隠棲される。
 親王死去の後、村民その徳を敬慕して邸跡に小祠を建てて村の鎮守としてあがめ奉る。
 その後松平伊豆守抱屋敷内に祀れる稲荷大神を社殿と共に村内に寄附され、社名を尊空稲荷神社と称した。
 昭和20年3月9日の戦災により両社消失。
 昭和22年3月、志演神社と尊空稲荷神社を合祀して社名を志演尊空神社と改名す。

 志演尊空神社の境内に「江戸・東京の農業野菜の促成栽培発祥の地・砂村」の案内があった。

江戸・東京の農業野菜の促成栽培発祥の地・砂村

 野菜の促成栽培は寛文年間(1661〜73)の頃、中田新田の農民、松本久四郎が考案したと言われています。
 初物を食べるというぜいたくが広がり過ぎると、農家は米麦など基本食料の生産よりも、高く売れる初物づくりに力を入れるようになり、また、庶民のぜいたくは、身分制度をゆるがすことになるとして、江戸幕府はたびたび、出荷日を統制する法令、促成栽培禁止の町触れを何回も出して、取り締まりました。
 この促成栽培の方法は、ゴミを堆積すると醗酵熱が出るのを利用し、江戸市中から出るゴミ(江戸ゴミ)を堆積、この熱を利用して早く野菜の種をまくことで、収穫が早くできるようになりました。明治維新以後には一層盛んになり、昭和に入って産地の中心が江戸川方面に移るまで続きました。
 江戸ごみという都市廃棄物を農業生産に活用した、見事なリサイクルが昭和30年代まで展開されてきた事実にも驚きと先人の苦労がしのばれます。

石田波郷も砂村の促成栽培について書いている。

葱坊主一途に蝶の舞へりけり


 季節に先んじた野菜山菜など高価なばかりでうまいわけはないが、高級料理店では出盛りのうまいものは食えないことになっている。ところがこれは今に始まったことではないと見えて、天保13年、幕府はわざわざ御触書を出して禁じている。その中に「胡瓜茄子隠元豆鶉豆の類その他萠物(もやし)と唱え、雨障子を懸け塵芥にて仕立て或は室の中へ炭団火を用ひ養ひて」とある当時の促成栽培はことごとく砂村のものであった。他所でもやるようになったのは洋式促成法が入ってきてからである。

『江東歳時記』 (北砂町9丁目で)

俳人石田波郷宅跡 へ。

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