このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
石田波郷の句碑
はこべらや焦土の色の雀ども
志演尊空神社
の隣に
俳人
石田波郷宅跡がある。
俳人石田波郷は、
中村草田男
や加藤楸邨らと並び人間探求派と呼ばれ、現代俳句を発展させたひとりです。
波郷は、大正2年愛媛県で生まれました。昭和21年にここ江東区北砂に移り、昭和33年まで居を構えていました。その後数多くの名作を残し、昭和44年11月21日に病気のため56才で亡くなりました。お墓は調布市の
深大寺
にあります。
隣の妙久寺に句碑が建っています。
昭和21年(1946年)1月、石田波郷は疎開先の埼玉県北埼玉郡樋遺川村(現・加須市)から妻子を伴って上京、葛西の吉田勲司宅に仮寓。3月10日、江東区北砂町1−805に転居した。
大霊山妙久寺
日蓮宗
の寺院である。
白梅が見事に咲いていた。
波郷の句碑
はこべらや焦土の色の雀ども
昭和20年(1945年)3月9日、波郷の妻安嬉子は修大を伴い埼玉県北埼玉郡樋遺川村(現・加須市)に疎開、同夜米空軍の大爆撃により北砂町の妻安嬉子の実家焼亡、安嬉子の母こう、妹静江、光子死去。
芋うるめあまりあらたに仏たち
妻の母、妹二人、これらの「仏たち」
がまざまざと思起され、食膳の芋のう
るむ宵もあつた。死んだもの果して不
幸なりや否や、それにしても「あまり
あらたに」には違ひなかつた。
『波郷句自解』
「波郷百句」
昭和33年(1958年)3月28日、波郷は練馬区谷原町の新居に転居している。波郷45歳の時である。
句碑の裏に「
昭和34年10月吉日鶴江東支部
」と刻まれている。
昭和34年(1959年)11月11日、除幕式がおこなわれたそうだ。
現在、
鶴江東句会
が江東区立毛利小学校内で開かれている。
妙久寺の脇を越中島貨物線が走る。
私は毎朝、小名木川駅の貨物の入換えや突放のひびきで目をさます。戦後砂町に移って11年間そうである。もっとも初めの4、5年は貨物の動きも今ほどではなかった。鉄路の堤にのびた土筆
(つくし)
を子供と摘んだこともある。
小名木川駅春の上潮曇るなり
『江東歳時記』
(小名木川駅で)
石田波郷の句碑
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