このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

石田波郷ゆかりの地



志演尊空神社

亀戸からバスで北砂町へ。


境川停留所で下車。

 亀戸から真直ぐ北砂町に至る道路、清洲橋から葛西橋へ走る幹線が交叉するのが境川停留所だが、勿論電車はまだ通っていない。交叉点から西へ向う直ぐの右角が銀行の焼跡、並んで志演神社、神殿も社務所もなく、鳥居も燈籠もくずれ落ち、石段の御影石が白く春日に輝いていた。 その隣が妻の父の店のあったところで、店も倉庫もなく、大きな地下室にいろいろの残骸がくずれ落ちて水を溜めていた。店の裏手の低い地に、埼玉から運んできた16坪程の家が建っていた。その隣は妙久寺という日蓮宗の寺で、ここは2本の山門石と焼けくろずんだ墓石ばかりという荒れはてた周囲であった。

石田波郷『清瀬村』

 「亀戸から真直ぐ北砂町に至る道路」が明治通り、「清洲橋から葛西橋へ走る幹線」は清洲橋通り。

   わが隣なる志演神社には

秋風の廢石階にわが座あり

『春嵐』

志演尊空神社


 昭和20年3月9日の戦災により志演神社と尊空稲荷神社は消失。昭和22年3月、志演神社と尊空稲荷神社を合祀して社名を志演尊空神社と改名。志演尊空神社の境内に「江戸・東京の農業 野菜の促成栽培発祥の地・砂村」 の案内がある。

 私の家の前の道路は元境川という川が流れていた。妻は子供の頃この川で泳いだそうである。岸には木が茂り水は澄んでいたという。境川は、文字通り北砂町と南砂町の堺をなしていたが、今は停留所にその名をとどめるに過ぎない。

石田波郷『清瀬村』

妙久寺 へ。

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