このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

石田波郷


『波郷句自解』

波郷百句

昭和22年(1947年)12月、『波郷百句』現代俳句社刊。

平成15年(2003年)2月、『波郷句自解』(梁塵文庫)刊。

大阪城ベツトの足にある春暁

      昭和十年四月、 水原秋桜子 先生と京阪
      に遊んだ。大阪馬酔木大会が当面の用
      であつたが、この時山口誓子馬酔木加
      盟が決定し、氏の「射手の挨拶」を持
      帰つた。同ビルホテル朝の触目。

百日紅ごくごく水を呑むばかり

      百日紅は七月から九月末まで、だらだ
      らと咲き続ける。「百日紅いつまで燃
      ゆるラヂオの歌」の通り。この句は酷
      暑八月の作。ごくごくがすさまじく効
      いてゐる。

元旦の殺生石の匂ひかな

      昭和十六年暮から十七年正月にかけて
      那須温泉に滞在してゐた。太平洋戦争
      勃発直後の元日、石の香や夏草赤く露
      暑しと芭蕉が吟じた殺生石を詠つたの
      である。

葭雀二人にされてゐたりけり

      昭和十七年五月、中村金鈴氏と葛西の
      吉田勲司宅を訪ね、鳴とよむ葭切の声
      の中で饗応された。席に馬酔木句会で
      一度会つた吉田安嬉子あり、頃合をみ
      て二人きりにされた。

露草の露ひかりいづまことかな

      同六月二十六日 吉田安嬉子と結婚
      た。他に「露草の瑠璃十薬の白繁り合
      へ」の句がある。

(ひぐらし)や蝶のみ杉の秀をゆきて

      式後伊香保に赴いた。 古久屋 は改造社
      森田素夫氏の郷家、前年石塚友二氏夫
      妻の遊んだ館である。小雨、火桶を抱
      く。庭前森々と蜩がないて一蝶甚だ高
      く杉の秀を渡るのが印象的であつた。

槇の空秋押移りゐたりけり

      一二本の槇あるのみ。然もきりきりと
      自然の大転換を現じてみせようとし
      た。一枚の板金のやうな叙法。

雁やのこるものみな美しき

      昭和十八年九月二十三日召集令状来。
      雁のきのふの夕とわかちなし、夕映が
      昨日の如く美しかつた。何もかも急に
      美しく眺められた。それら悉くを残し
      てゆかねばならぬのであつた。

春の鳩肩に頭に戦記かな

      昭和十九年三月、華北の片田舎で鳩を
      飼つて暮らしてうぃた、通信用の鳩を。

よろめくや白衣に浴ぶる冬日さし

      昭和二十年一月博多港に上陸した。よ
      ろめく足を踏しめて故国の冬日を浴び
      て立つた白衣のすがた。とにかく生き
      て帰つてきた、それは敗戦へ追込まれ
      た悲惨な祖国ではあつたが。

栗食むや若く悲しき背を曲げて

      昭和二十年十月、終戦後の不安、混乱
      の中に、尚田舎にとゞまつてゐた。こ
      の哀しい姿は作者だけのものではなか
      つた。

芋うるめあまりあらたに仏たち

      妻の母、妹二人、これらの「仏たち」
      がまざまざと思起され、食膳の芋のう
      るむ宵もあつた。死んだもの果して不
      幸なりや否や、それにしても「あまり
      あらたに」には違ひなかつた。

坂なして橋光りたり降り出す雪

      昭和二十一年出京、取敢ず葛西の吉田
      勲司居の二階に落着いた。橋は荒川放
      水路中川にかゝる葛西橋である。

細雪妻に言葉を待たれをり

      同前。東京に出て来たものゝ家なく、
      職はなく健康はすぐれない。音もなく
      降る細雪を眺めつゝ傍の妻に何か言ひ
      かけるが、言葉がつゞかない。今後は
      とにかく俳句でと思ひ「現代俳句」を
      企劃してゐた。

このページのトップ に戻る

石田波郷 に戻る



このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください