このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

下 町
indexにもどる

木母寺〜梅若塚〜

鐘ヶ淵陸橋 から隅田川に出ると、隅田川沿いに木母(もくぼ)寺がある。


木母(もくぼ)


木母寺は 天台宗

元禄7年(1694年)8月、榎本其角は木母寺で句を詠んでいる。

   甲戌仲秋

木母寺に歌の會あり今日の月


佐久間柳居 も句を詠んでいる。

木母寺に世をのかるゝや涼舟


大島蓼太 も句を詠んでいる。

   眠我と墨水に遊て

木母寺を力なりけり秋のくれ


川村碩布 も句を詠んでいる。

   木母寺にて

暮る迄雨をよけよけうめの花


兄直 も句を詠んでいる。

木母寺に果しの付や雪見舟


木母寺といえば、梅若塚。

梅若塚


梅若塚の沿革

 「たづね来て問はばこたへよ都鳥すみだ河原の露ときえぬと」の辞世で名高い梅若塚は中世からは能「隅田川」の文学的旧跡、また江戸時代には梅若山王権現の霊地として尊信されました。

 文明18年(1486年)、道興准后は隅田川のほとりで梅若塚を見ている。

かくて、隅田川のほとりに到りて、皆々歌よみて披講などして古の塚のすがた、哀れさ今の如くに覚えて、

   古塚のかけ行く水の隅田川聞きわたりてもぬるゝ袖かな


 明和7年(1770年)5月1日、諸九尼は 蓼太 の催しで隅田川を舟で逍遥、梅若塚を訪れている。

 五月朔日  蓼太 老人の催しにて、隅田川に舟せうようす。在五中将の古き物語ども思出て、誠に遠くも来けりと覚ゆ。梅わか丸の塚を弔ひて、

   幟たつころ木母寺の猶あはれ

 五百羅漢堂にて、

   仰向は子規きく羅漢かも   只言


梅若の柳も雪のあしたかな    金令


文化5年(1808年)3月20日、 小林一茶 は梅若塚を詠んでいる。

   角田堤

雉なくや彼の梅わかの涙雨

『花見の記』

 明治の世となり、木母寺が廃寺の後は梅若神社と称されましたが、同寺再興の翌年(同22年)佛式に復歸しました。

 明治24年(18981)春、 正岡子規 は木母寺の茶店に試験勉強のため逗留した。

 けれども試験を受けぬ訳には往かぬから試験前三日といふに哲学のノート(蒟蒻板(こんにゃくばん)に摺(す)りたる)と手帳一冊とを携へたまま飄然と下宿を出て向島の木母寺へ往た。

『墨汁一滴』

明治31年(1898年)、子規は梅若神社を歌に詠んでいる。

   梅若神社

わが塚にうゑよといひし道のへの一本柳その柳かも

 現在地に遷座したのは昭和51年で、旧地は門前の団地住宅第9号棟の東面梅若公園内に存置、石標が立っています。

3月15日の梅若忌に大念仏が行われる。

下 町 に戻る


このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください