このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
下 町
梅屋敷趾
〜臥龍梅〜
香取神社
から北十間川に沿って浅草通りを行く。
梅屋敷趾の碑があった。
梅屋敷は呉服商伊勢屋彦右衛門の別荘。
「臥龍梅
(がりゅうばい)
」という梅の木が有名で、江戸庶民の梅見の名所。
白雲の龍をつつむや梅の花
嵐雪
八代将軍徳川吉宗 公や
水戸光圀
公も訪れたそうだ。
碑の脇に梅の木があったが、陽当たりも悪く、梅の花は疎らであった。
歌川広重『
名所江戸百景
亀戸梅屋舗』
ボストン美術館 所蔵。
ゴッホは油絵に模写して「日本趣味・花咲く梅の木」の作品を残している。
大島蓼太
は臥龍梅を句に詠んでいる。
臥龍梅
道々も此木這てやむめのはな
『蓼太句集』(安永版)
鈴木荘丹
も大島蓼太と臥龍梅を訪れたようだ。
臥龍梅
同
二
蓼師
一
うめかゝの這渡りけり茶店か床
『能静草』
文化2年(1805年)1月10日、小林一茶は梅屋敷を訪れた。
十日 晴 文国宿 梅屋敷
只の木はのり出で立てり梅[の]花
『文化句帖』(文化2年正月)
一茶は翌日
亀戸天神社
を訪れている。
文化4年(1806年)1月15日、一茶は
祗兵
と梅屋敷へ。
十五日 晴 北風 祗兵と梅屋敷ニ入 十兵衛息年礼 野逸死ス
『文化句帖』(文化4年1月)
この日、
加藤野逸
は80歳で没。
明治31年(1898年)、
正岡子規
は「臥龍梅」を歌に詠んでいる。
臥龍梅
梅園に老い行く年を臥す竜の爪もあらはに花まばらなり
明治43年(1910年)、水害で大部分の木が枯れ、大正10年(1921年)完全に滅びたそうだ。
明治43年(1910年)8月10日、埼玉県幸手の
権現堂提
が切れ、
浅草の観音様
まで水が来た。この大水害で東京市長尾崎行雄は荒川放水路の計画を立てたという。
正岡子規が歌を詠んでから12年後に「臥龍梅」の大部分の木が枯れてしまったわけである。
天祖神社
へ。
下 町
〜
江東区
に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください