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私の旅日記
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2006年
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史跡
玉泉寺
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日本最初
米國領事館〜
修善寺温泉
から国道136号、さらに国道414号で下田へ向かう。
下田から国道135号に入り、右折して爪木崎に向かう途中に
玉泉寺(HP)
がある。
玉泉寺
伊豆八十八ヶ所霊場40番札所
曹洞宗
の寺である。
玉泉寺は国指定の史跡。
史跡
玉泉寺
昭和26年6月9日 国指定
嘉永7年(安政元年=1854)3月、日米和親条約により下田が開港され、続いて5月、下田条約(和親条約追加9か条)が結ばれると、ここ玉泉寺は
了仙寺
とともに米人休息所に指定された。
嘉永6年(1853年)6月3日(新暦7月8日)、ペリーの率いるアメリカ東インド艦隊、浦賀沖に入港。
嘉永7年(1854年)1月16日(新暦2月13日)、ペリー、旗艦サスケハナ号など7隻の軍艦を率いて再来。3月3日(新暦3月31日)、日米和親条約により下田が開港される。
嘉永7年11月27日(グレゴリオ暦1855年1月15日)、安政に改元。
安政3年(1856)7月、タウンゼント・ハリスが米国総領事として下田に来航した。
しかし、幕府が着任を拒否しようとしたため数日間もめた。結局、条約の日本訳に誤りがあったことが分かり、8月5日、日本最初の領事館が玉泉寺に開設され、星条旗が前庭高く翻った。ハリスは、通訳のオランダ人ヒュースケン、召使の中国人と共にここに住んだ。
安政年間日本最初
米國領事館
ハリスの使命は通商条約の締結であったが、幕府はなかなか交渉に応じず進展しなかった。健康を害しながらも辛抱強く交渉にあたったハリスは、安政4年5月26日、下田奉行との間に締結した「下田協約」(米国側に著しく不利であった日米通貨比率の是正、長崎の追加開港など)を足がかりに安政5年6月19日、ポーハタン号艦上で、日米修好通商条約及び貿易章程の調印に成功した。米国に続いて、日露、日英、日仏通商条約が結ばれた。
通商条約により横浜が開港されると、安政6年5月下田領事館は閉鎖され、ハリスはその使命を終え下田を去った。
なお、境内には米人の墓5基、露人の墓3基が残されている。
下田市教育委員会
ハリス記念碑
英文碑面訳
1856年9月4日(安政3年8月6日)初めて日本帝国の一角に領事旗を揚げ、翌年11月23日までこの地に居住し、1858年7月29日、江戸条約によりて日本の門戸を世界に開きたる米国総領事タウンゼント・ハリス記念の為、此の碑を建つ。
※最後に下田を去りたるは1859年6月30日なり
1927年9月4日
建立者 子爵
渋沢栄一
故駐日米国大使
エドガー・エー・バンクロフト
シカゴ市民
ヘンリー・エム・ウルフ
★ ★ ★
1856年9月4日(ハリス日記より)
興奮と蚊のため、ひじょうに僅かしか眠れなかった。蚊はたいへん大きい。午前7時に水兵たちが旗竿をたてに上陸した。荒い仕事。はかどらぬ作業。円材が倒れて、横桁が折れる。幸に誰も怪我はない。とうとう艦から加勢をうける。旗竿が立った。水兵たちが、それを廻って輪形をつくる。そして、この日の午後2時半に、この帝国におけるこれまでの「最初の領事旗」を私は掲揚する。厳粛な反省−変化の前兆−疑いもなく新しい時代がはじまる。敢えて問う...日本の真の幸福になるだろうか?...
昭和10年(1935年)2月26日、
与謝野晶子
は
堂ヶ島
から婆裟羅峠を越えて下田の玉泉寺へ。
玉泉寺ハリスの室をば憐むに過ぎて身に泌むあめりかの墓
『冬柏』(色即是空)
昭和11年(1936年)4月22日、
種田山頭火
は玉泉寺を訪れた。
4月22日[続] 花時風雨多、まったくその通りの雨風だった。
下田近くになると、まず玉泉寺があった、維新史の第1頁を歩いているようだ。
『旅日記』
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