このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
浜松東照宮
〜曳馬城跡〜
浜松市中区元城町に浜松東照宮がある。
曳馬城跡である。
元城町東照宮由緒
御祭神徳川家康公
事代主命 大国主命
明治維新後浜松藩代たりし旧幕臣井上八郎氏(延陵)に依り明治十七年元城町古城(旧曳馬城跡)に創建せられその管理祭祀を大日本報徳社に委ねていたが昭和十一年その所有権が井上家より亦管理権が大日本報徳社より大石力氏に引継がれ その後元城町の氏神として奉斎する事となり村社に列せられた昭和二十年戦災により焼失せるも昭和三十四年に社殿手水舎社務所等を再建し今日に至る
浜松東照宮
社殿の右手に
豊臣秀吉
公と
徳川家康
公の像が並んでいた。
浜松時代の少年豊臣秀吉公像 16才
天文20年(1551年)
初めて武家奉公がかなったときの少年秀吉公のお姿
武士になろうとして、尾張の国より針の行商をしながら主君を捜す旅に出た。浜松の馬込川ほとりで、浜松の豪族松下嘉兵衛に出会い、ここ曳馬城(元城町東照宮)までつれてこられた。引間城主飯島家の宴会で、猿そっくりの口元で猿の物真似をして栗を食べて気に入られ、松下家へ初めての武家奉公の夢がかなった。『太閤素生記』。
浜松市南区頭陀寺の松下屋敷で、武家修行を積み、よく働き、良く学んだ秀吉公は16才〜18才の3年間、この浜松で過ごし成長していった。その後、松下家から退職金をもらい尾張へ帰った。そして織田信長公と出会い織田家中で出世をはたし、ついには天下人となった。
史学博士 磯田道史
浜松時代の若き徳川家康公像 31才
元亀3年(1572年)12月22日
三方ヶ原合戦時に武田軍に立ち向かった時のご勇姿
家康公はここ元城町東照宮(引間城本丸)を居所とし、新たに浜松城を築いた。しかし、
武田信玄
に領土を侵され、危険を案じた織田信長から「浜松を捨てよ」との命令が出た。そのとき家康公は「我もし浜松を去らば刀を踏み折りて武士を止むべし『武徳編年集成』」と言い放ち、命令を無視して踏みとどまり、戦国最強とうたわれた竹田軍に挑み、この地より出陣した(
三方ヶ原合戦
)。しかし結果は大敗北。
本社北東角の元目口にからくも生還した。
戦には負けたが、武田軍を城まで踏み込ませることなく撤退させた家康公、今川家や織田家の命令をはなれ初めて自分の意思で戦い、浜松城を保って領民を守り抜いたお姿である。
史学博士 磯田道史
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