このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記

木下杢太郎記念館

〜新詩社同人の五人づれ〜

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熱海 から国道135号下って、伊東へ。


 道の駅「伊東サンライズマリーナ」の伊東市観光案内所で伊東市の地図をもらい、伊東の町を歩いてみることにする。

木下杢太郎記念館があった。


木下杢太郎記念館


昭和44年(1969年)、木下杢太郎記念館開館。

入館料が100円なので、入ってみる。

市指定史跡

木下杢太郎生家

 天保6年(1835年)に建築された家屋であり、木造瓦葺の平屋建65.175㎡(19.75坪)で、創建以来居室及び台所として使用されてきた部分で、市内において現存する最古の民家です。

 木下杢太郎、本名−太田正雄(1885年〜1945年)は伊東市湯川の商家に生れ、東大医学部へ進み皮膚科を専攻し、後に東大医学部の教授となり、かたわら1907年与謝野寛主幹の詩歌雑誌『明星』に参加、日本近代詩に異国情緒と江戸趣味を融合した耽美的詩風をそそぎました。

  指定 昭和45年5月12日

伊東市教育委員会

 水虫が白癬菌でおこる皮膚病であることを日本で最初に証明したのは太田正雄だそうだ。

新詩社同人の五人づれ


 中央が 北原白秋 、白秋の左が与謝野鉄幹、右に顔を出しているのが木下杢太郎。

 明治40年(1907年)7月28日から8月27日まで、与謝野寛、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里の5人で九州西部を中心に約1ヶ月の旅した。その時の紀行文が『五足の靴』である。

「むかしの仲間」


伊東公園にある文学碑の拓本のようだ。

 明治41年(1908年)、木下杢太郎は北原白秋、吉井勇らと新詩社を脱会し、「パンの会」を興す。森鴎外を初めて訪問。杢太郎23歳の時である。

森鴎外の遺書


森鴎外の遺書

余は少年の時より老死に至るまで一切の秘密なく交際したる友は賀古鶴所君なり
こゝに死に臨んで賀古君の一筆をわづらはす
死は一切を打ち切る重大事件なり
奈何なる官憲威力と雖此に反抗するを得ずと信す
余は石見の人森林太郎として死せんと欲す
宮内省陸軍省皆縁故あれども生死分かるゝの瞬間にあらゆる外形的取扱ひを辞す
森林太郎として死せんとす
墓は森林太郎の外一字もほる可からず
書は中村不折に委託し宮内省陸軍省の栄典は絶対に取りやめを請ふ
手続きはそれぞれあるべし
これ唯一の友人に云ひ残すものにして何人の容喙も許さず

大正十一年七月六日

森林太郎 言
賀古鶴所 書

三鷹市の禅林寺に 「遺言碑」 がある。

 大正15年から12年間、木下杢太郎は東北大学医学部皮膚科の教授であった。

 昭和2年(1927年)10月、小杉未醒は「奥の細道」を歩いて、仙台の木下杢太郎を訪れている。

 小春日和の仙臺で、二人のしるべをたづねる、一人は大學病院の杢太郎博士、それと連れ立つて他の一人の小宮氏を訪ふ、


 昭和5年(1930年)の元日、 与謝野晶子 は初めて伊東を訪れ、木下杢太郎の生家のことを書いている。

 散歩の序(ついで)に木下杢太郎さんの生家の前をも通つた。昔からの呉服屋である。木下さんが少年時代から親しまれた風景であると思ふと、冬枯の山の色も、ならひ(東北風)の吹く磯の波音も、私になつかしいものであつた。

『伊豆の旅』

東北大学医学部附属病院 に木下杢太郎の詩碑がある。

東海館 へ。

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