このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
昔の旅日記
天城峠
〜湯ヶ島温泉「
眠雲閣
落合楼」〜
国道136号から国道414号に入り、湯ヶ島温泉へ。
「
眠雲閣
落合楼」
に泊まる。
湯ヶ島と言えば、川端康成の『伊豆の踊子』。
道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追ってきた。
私は二十歳、高等学校の制帽をかぶり、紺飛白
(こんがすり)
の着物に袴をはき、学生カバンを肩にかけていた。
「湯本館」は『伊豆の踊子』執筆の宿。
湯ヶ島の二日目の夜、宿屋へ流して来た。踊子が玄関の板敷で踊るのを、私は梯子段の中途に腰を下して一心に見ていた。
一高生の「私」は、「湯本館」の梯子段の中途に腰を下して、踊子が玄関の板敷で踊るのを見ていたわけである。
国道414号をさらに南下して天城トンネルへ。
新天城トンネル
昭和45年に完成した。
新天城トンネルの脇の道を5分程登っていくと、旧天城トンネルがある。
旧天城トンネルは明治38年に完成している。『伊豆の踊子』は、大正15年に発表されたが、
川端康成
が実際に修善寺から下田まで旅をしたのは大正7年である。
暗いトンネルに入ると、冷たい雫がぽたぽた落ちていた。南伊豆への出口が前方に小さく明るんでいた。
これより先、明治42年に
島崎藤村
、
田山花袋
、蒲原有明らが旧天城トンネルを馬車で通っている。
漸くのことで山上の小屋へ着いた。吾儕は馬車から下りた。何よりも先づ焚火にあてゝ貰つて、更にこれから湯が野まで乘るか、それとも歩いて下るか、とその相談をした。 能く喋舌る老婦
(ばあさん)
が居て、こゝで郵便物は毎日交換されるの、あの氷を製造して居るのは自分の旦那だの。とノベツに話した。吾儕は湯が野まで乘ることに定めた。馬丁は馬に食はせて、今度は自分も乘つて、氷柱
(つらゝ)
の垂下つた暗い隧道
(とんねる)
を指して出掛けた。
島崎藤村『伊豆の旅』
「私」は、天城峠を越えて、湯ヶ野温泉の福田家に宿をとった。
河津川の対岸に共同湯がある。
仄暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出して来たかと思うと、脱衣場の突鼻に川岸へ飛び下りそうな恰好で立ち、両手を一ぱいに伸ばして何か叫んでいる。手拭いもない真裸だ。それが踊り子だった。
「私」は福田家の二階の部屋で見ているのである。
現在、共同湯は地元の人しか入れない。
県道14号下佐ケ野谷津線で峰温泉へ。
湯ヶ野を出外れると、また山にはいった。海の上の朝日が山の腹を温めていた。私たちは朝日の方を眺めた。
峰温泉には「踊り子温泉会館」がある。
河津桜を見る。
メジロ
が飛び交っていた。
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