このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

新年の旅日記

米騒動発祥の地〜旧十二銀行 米倉〜
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魚津城址 から旧北陸道へ。

旧十二銀行事務所・米倉


 魚津町は江戸時代以来の越中東部の政治・経済の中心地として栄え、明治期には、米屋・反物屋・食料品店・飲食店・魚屋・酒屋などが多数存在した大正年間には、15,000人の人口を擁し、北海道や樺太への米の積み出しが行われていた。当時の大町通りには、魚津銀行や十二銀行魚津支店、高岡銀行魚津支店、富山貯蓄銀行が軒を並べ、金融とともに米穀商の米の保管も行っていた。そのため、米騒動の舞台のひとつとなった。

 現在は、旧十二銀行の事務所(明治44年)と米倉(大正3年)、土蔵(明治元年)が米騒動当時の建物として現存している。

※昭和18年に十二銀行・魚津銀行・高岡銀行・富山貯蓄銀行が合併し、北陸銀行となった。

富山市教育委員会

米騒動発祥の地


旧十二銀行 米倉

 大正7年(1918年)、全国をゆるがせた米騒動は、7月23日の魚津町(現:魚津市)で起こった汽船への、北海道への米の積み出し阻止が発端といわれています。

 ここは、旧十二銀行の米倉庫でした。当時は地元の米商人が買い付けた米(俵)は、銀行管理の倉庫に預けられ、そこから汽船に積み込んで出荷していました。現在は海辺の景観も変わってしまいましたが、この米倉が魚津の米騒動の名残りをとどめています。

魚津市教育委員会

魚津の米騒動

 大正3年(1914年)に始まった第一次世界大戦は、日本に好景気をもたらしたが、その反面、物価は急上昇し、庶民の生活は困窮した。特に、米商人の買い占めや売り惜しみなどにより 米価は戦前の4倍にもなった。

 このような状況下、大正7年(1918年)7月23日、北海道への米の輸送船『伊吹丸』が魚津町に寄港した。おりからの米価高騰に苦しんでいた漁師の主婦ら数十人が、米の積み出しをおこなっていた大町海岸の十二銀行の米倉前に集まり、米の積み出しをやめるよう要求し、このため米の搬出は中止された。

 この事件は、地元紙により富山県内に大きく報道され、水橋、滑川、岩瀬、泊、生地など沿岸部で次々と米騒動がおこった。さらにこの騒動は全国に広がり、当時の内閣が総辞職に追いこまれた。その後、日本で最初の本格的な政党内閣の誕生につながった。

富山市教育委員会

米騒動のモニュメント


 大町海岸公園を整備するにあたり、ここが米騒動発祥の地の近くであることから、デザインを公募してこのモニュメントを設置しました。

 デザインは、船のへさきと積んである米俵であり、当時の米俵の積み出しをイメージしています。

 台座の部分は、美しい魚津の海岸線をイメージし、ビー玉や貝殻で砂浜を、モザイクタイルで富山湾の海の青さを表現しています。

魚津市

魚津の米騒動はなぜ起こったのか?

 大正7年(1918年)、米価が急に上がり、半年で1.7倍になった。その理由は、都市の人口増加により米の消費量が増大したことやシベリア出兵をきっかけとした米の買い付け、一部商人による米の買い占めだった。人々の生活は、大変苦しいものになった。そのような状況のなか、北海道に米を運ぶための蒸気船「伊吹丸」が魚津沖に停泊し、積込み作業を始めたことから、船への積込みを阻止するために米騒動が起こった。

 7月23日に起こったの魚津の米騒動は、公的機関の記録を基に一番早く起こっていることから、「米騒動発祥の地」と呼ばれるようになった。魚津の米騒動は、暴力的ではなく、話し合いで収まったことが大きな特徴である。

魚津市教育委員会

全国に広がった米騒動

 富山県は、江戸時代から、米が高くなった時に藩が米を貸し与えたり、明治時代には、町が白米を給付したりしていた。そのため、町に救済を願い出る行動が、明治時代から行われていた。大正7年(1918年)7月23日の魚津の米騒動は、すぐに『富山日報』により県内に大きく報道された。そのため、20市町村で米騒動が起き、5300人が参加した。8月には、富山県内各地に広がった米騒動が「女房連の一揆」、「女一揆」などの名で全国に報道されると、富山県外でも米騒動が起こって。全国では、青森、秋田、沖縄県を除く、1道3府40県、約500ヶ所で米騒動が発生し、約70万〜100万人が参加したと言われている。

魚津市教育委員会

大変、勉強になった。

魚津埋没林博物館 へ。



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