このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
十六羅漢岩
〜田山花袋〜
JR奥羽本線吹浦駅下車。
嘉永5年(1852)閏2月22日、吉田松陰は福良に泊まっている。
海を離れて行くに、峻嶺雪を含み卓然として前に當るものを鳥海山と爲す。又川を濟ること二次、皆、源を是の山に發するものなり。福良に宿す。海濱なり。行程十二里。
『東北遊日記』
国道345号(羽州浜街道)を海岸沿いに歩く。
国道沿いに
芭蕉の句碑
があった。
あつミ山や吹浦かけて夕すゞみ
十六羅漢岩へ。
名勝羅漢岩の由来
現曹洞宗海禅寺、二十一代目の石川寛海大和尚が、日本海の荒波の打ち寄せる奇岩の連る数百メートルに点綴して刻んだ、十六羅漢がある。奇岩怪岩に富んだこの岩石を利用して巧みに佛像22体を彫刻した和尚の努力と精進のほどに敬虔の念を捧げます。又和尚は作佛発願以来喜捨金を酒田に托鉢し、一両を求めると一佛を刻し、元治元年より明治初年までの間石工とともに彫刻したのが羅漢像である。
正面に釈迦・文殊・普賢の三尊と、その周囲に十六羅漢その他の佛像を配し全部が半身佛である。像は岩形に応じてその姿態を羅漢にしたのは自然の景観に一段の奇観を添え接する人々の庶民信仰を培う和尚の慈悲心の現れである。
遊佐町
福浦海禅寺
羅漢岩
観音菩薩
すべてを探すのは難しい。
明治36年(1903年)8月、
田山花袋
は人力車で「十六羅漢岩」に訪れている 車夫を先に立たせて、砂山の相連れる間をたれば、今まで見えぎりし吹浦湾の奇景は一々眼前に現れ来りて、岩の聳ゆる、波のあがれる、ことに鳥海山麓の小丘陵の長く蒼く海中に突出せる、われは思はず手を拍つて快哉を叫びつ。
況んやその海岸の巨石には十六羅漢の像を刻し、絶海の端、或は岩洞の裡、巨人の姿は寂然として終古狂瀾怒濤に相対せるをや。われは岩を渡り、潮を踰
(こ)
えて、数町の間に其数を数ふること十一に及びたれどしかも遂に其の余を発見すること能はざりき。思ふに、徒歩にしては到り難き絶海の巨岩にあるなるべし。
「羽後の海岸」(『草枕』所収)
大正10年(1921年)11月15日、吹浦駅−象潟駅間開業。
百合が咲いていた。
鳥海山は雲の中。
明治40年(1907年)10月12日、河東碧梧桐は袖が浦から鳥海山を見ている。
鳥海山は何等目に遮ぎるものもなく殆ど赤裸々に見える。袖が浦という海辺になど出ると、手にとるように近い。稲村岳も生か岳も鳥海山の瘤のように見えて、その裾は
大師崎
となって直に波に迫っておる。鳥海山を秋田県の領分にしようとした時、庄内の人が一番に不平をいうたのは無理もない。
『三千里』
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