このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

2019年の旅日記

周防国分寺〜種田山頭火〜
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防府市国分寺町に周防国分寺がある。

 県指定有形文化財(建造物)

周防国分寺楼門一棟

 この門は、三間一戸、潜り戸付きで、屋根は入母屋造り、本瓦葺きの楼門で、棟高は約12mほどである。

 上層の縁、高欄、組物、二軒扇垂木、花頭窓など、禅宗様式を取り入れて、全体に美しい構成である。

 門の左右には、室町時代の製作とされる一対の阿吽形の金剛力士(仁王)像(像高約3.5m)を安置する仁王門である。

 かつての門は、応永24年(1417年)に焼失したが、文禄5年(1596年)に毛利輝元公が再建し、明和4年(1767年)毛利重就公が大改修をし、近くは昭和31年(1956年)に解体修理を行っている。

 このように、建立年代は古いとは言えないが、創建当時の境内地にあり、大寺院の山門にふさわしい規模と構成を備えた建造物である。

防府市教育委員会

周防国分寺楼門


周防国分寺

 周防国分寺は、多数の文化財を保存した極めて歴史的価値の高い古刹である。北に多々良山を負い、南には防府市街をとおして三田尻湾を望む景勝の地にそびえ立つ大伽藍は、創建当初の地にあり、国分寺の堂塔の偉容をあらわしている。

 当時は、金光明四天王護国之寺又は金光明寺など、いろいろな寺号があったが、後に浄瑠璃山国分寺と称せられるようになった。奈良時代の天平13年(741年)聖武天皇の勅願によって、国家の鎮護と国民の景福を祈願するために国ごとに建立された由緒ある官寺の一つである。

 本寺が創建された奈良時代は、わが国律令政治の栄えた時で、 国分寺 は宗教によって国家を統治する勅願所で、皇室との因縁が特別に深く、往昔の規模が壮大であったことは、その寺域の面積が61町歩余りにまたがり、七堂伽藍と25ケ寺の塔頭と末寺を擁していたことでもうかがえる。

 後世、寺領の減少や維新後の寺院制度の変革等により、その規模は縮小され、現在では往時の遺構遺跡と建造物の一部を残すのみになったが、今なお仁王門をくぐると荘重な大金堂がある。ここには多数の国宝的仏像が安置されており、他の歴史的文化財と共に宗教上、学術上の一大宝庫をなしており、旧態を現存することにおいては、全国国分寺中極めて稀である。本尊は創建当初丈六の釈迦如来であったが、奈良時代の終わり頃から平安初期には薬師如来に替わっている。

 寺格は現在 高野山真言宗 に属する別格本山である。

 本寺がこうして旧格を維持し、歴史の各時代にまたがる豊富な霊仏至宝を保存してきたことは、実に聖武天皇の聖徳と歴代天皇の信仰の賜であり、また周防国府の力や大内氏、毛利氏の歴代国主の崇仏保護が非常に厚かったからである。

 多数ある寺宝の中で後奈良天皇宸筆般若心経及び金堂、並びに堂内の薬師如来、日光・月光菩薩立像、四天王立像及び持仏堂内の阿弥陀如来坐像など、八躯が国の重要文化財に指定され、国分寺旧境内は史跡に指定されている。

国分寺大金堂


昭和7年(1932年)11月12日、 種田山頭火 は国分寺を訪れている。

昨日、星城子君から戴いたゲルトを汽車賃にして白船居を訪ねる、いつ逢つてもかはらない温厚の君士(マヽ)人、すこし快活になつて、夜は質郎居で雑草句会、いつものやうに与太もとばせない、引留められるのを断つて二時の夜行列車で防府まで、もう御神幸はすんでゐた、夜の明けるまで街を山を歩きまはつた、此地が故郷の故郷だ、一草一木一石にも追憶がある。

佐かた利園はやつぱりよかつた、国分寺もよかつた。

『其中日記(一)』



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