このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
〜
2012年
〜
徳應寺
〜菊舎の墓と句碑〜
下関市長府金屋町の旧山陽道に
徳應寺
(HP)という寺がある。
徳應寺に
女流俳人
一字庵菊舎の墓と句碑がある。
徳應寺山門
徳應精舎
浄土真宗本願寺派
の寺である。
徳應寺本堂
本堂の手前右手に「文塚」があった。
雲となる花の父母なり春の雨
文政5年(1822年)、菊舎が両親からもらった手紙を埋めて建立。
本堂左手の墓域に菊舎の墓があった。
一字庵菊舎尼墓
右側面に辞世の句が刻まれている。
無量寿の寶の山や錦時
右に彰徳碑があった。
一字庵菊舎
は女流俳家なり。本姓名を田上道と呼ぶ。寶暦3年10月14日、長門國田耕村に生る。父は長府藩士田上由永、母は豊田氏。由永は後改めて本荘了左と稱す。
菊舎16歳にして郷里の著姓村田利之助に嫁し、24歳、寡婦と爲りて
生家
に復しぬ。28歳、薙髪して奥羽東海の行脚に出で、途次美濃派の宗匠
朝暮園傘狂
の門を敲く。終生斯道に精進して遂に一家を成し、傍ら詩歌・書畫・琴曲・茶儀の諸藝にも通曉せり。深く藩主梅門公の眷遇を蒙る。足跡殆と海内に印し、李紫溟・村井琴山・亀井南冥・小田海僊・小石元瑞・宗哲・費晴湖等の名流と交游す。斯くて蘿月松風塵外に倡佯
(※「倡」=「彳+尚」・「佯」=[彳+羊]
して婦節を全うし、文政9年8月23日長府に寂す。享壽70有4。徳應寺の塋域に葬る。文化9年出版の手折菊4巻は其主著なり。
大正14年秋百回忌に値り、其他の遺文をも追加して一字庵菊舎尼遺稿と曰ふ。
昭和2年5月 五世後裔 本荘熊次郎撰
「私の旅日記」
〜
2012年
〜に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください