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永井荷風 (ながい・かふう) 1879〜1959。


あじさい  (四国の山なみ)
短編。「おふくろさんのお墓かね」、「いえ。そうじゃ御在ません。先生だからおはなし申しますが、実は以前馴染の芸者で御在ます」──。下谷の芸者・君香(お君)と馴染になった三味線ひきの宗吉は、彼女を素人にしてやろうと懸命になる。しかし、葭町の芸者屋に住み替ったお君が、そこの主人の持物になって姉さん気取りで納まろうとしていると知って…。「兄さん、みんなわたしが悪いんです。打たれても蹴られても、わたし決して兄さんの事を恨みはしないから、思い入れひどい目に会わして頂戴。ヨウヨウ」──。女に入れ込みすぎた男の顛末をテンポ良く描いていて面白い。

或夜  (青空文庫)
掌編。姉夫婦の家に引き取られた十七の季子だが、姉の家にいるのが嫌で堪らない。別に居づらいというわけではなく、ここより外に身を置く処がないのが情けなくて嫌なのだ。時々、省線の駅に来て、ぼんやり時を過ごす彼女は、ある青年に話しかけられ…。「京成の市川駅へはどっちへ行ったらいいんでしょう」、「京成電車にはそんな駅はありません」。季子の多感な心持ちが面白く、ラストも笑える。

おもかげ  (四国の山なみ)
短編。「おのぶはもう死んでしまったのだし、おれが今だに一人でいるのも、つまる処その女のためなんだから、まア聞いてくれよ。今夜は喋りたいだけ喋らして貰おうよ」。タクシーの運転手・豊さんが語る身の上話──。結婚して三月で妻・おのぶと死に別れ、つらく悲しい日々を過ごす中、浅草の歌劇館で、死んだおのぶにそっくりな踊り子を見る。それ以来、足繁く歌劇館に通うようになるが…。亡妻のことを引きずって生きる主人公の満たされない心持ちを描いた秀作。

すみだ川  (青空文庫)
中編。「何故(なぜ)黙ってるのよ。どうしたの」、「明後日(あさって)帰って来てそれからまたあっちへ去(い)ってしまうんだろう。え。お糸ちゃんはもうそれなり向うの人になっちまうんだろう。もう僕とは会えないんだろう」──。幼馴染の恋人・お糸が芸者になってしまったため、これまでのように逢えなくなってしまい、悲嘆にくれる長吉。長吉を大学校に入れて立派な月給取りにしたい母・お豊(常磐津の師匠)と、若い頃に放蕩三昧した経験のある伯父・松風亭蘿月(俳諧師)の二人は、そんな長吉のことを心配するのだが…。恋の苦痛から将来を絶望していく少年の姿を、懐かしき隅田川の風景(荒廃の美)の中に描く。

つゆのあとさき  (青空文庫)
長編。
着物の袂(たもと)を切られたり、鼈甲(べっこう)の櫛(くし)がなくなったり、押入れの中に猫の死骸が入っていたり、内腿に黒子(ほくろ)があることを新聞に暴露されたり、近頃、気味の悪い出来事が続いている銀座のバー「ドンフワン」の女給・君江。
実は、嫌がらせの張本人は、人気小説家の清岡進だった。才色兼備な内縁の妻・鶴子がいるにもかかわらず、二十歳の君江を妾(めかけ)にしている清岡は、自分だけを愛していると思っていた君江が、いろいろな男達(好色の老人・松崎や、輸入商の矢田、舞踏家の木村など)と関係を持ち、淫恣(いんし)な生活を送っていることを知り、憎悪の念を覚えたのだ。

「それでも、僕には君江さんはそんなに憎むべき女だとは思われないんですよ。」
「君は傍観者だからさ。僕だってそれほど深く憎んでいるわけでもない。唯癪(しゃく)にさわるんだ。復讐だとか報復だとかいうほど深い意味じゃない。唯すこしいじめてやろうと思っているんだ。僕の考えている事をはなしたら、君はきっと残酷だとか人道にはずれているとか言うにちがいない。」

生れながらにして女子の羞耻(しゅうち)と貞操の観念とを欠いている女・君江と、鶴子との別離の原因を君江一人の上に塗りつけようとしている残忍性を帯びた男・清岡…。

田舎を飛び出して東京へ出て来た時分に、何かと世話になった男・川島と、思いがけなく久しぶりに出会った君江だが…。

「おじさん。わたしも今から考えて見ると、諏訪町で御厄介になっていた時分が一番面白かったんですわ。さっきも一人でそんな事を考出して、ぼんやりしていましたの。今夜はほんとに不思議な晩だわ。あの時分の事を思い出して、ぼんやり小石川の方を眺めている最中、おじさんに逢うなんて、ほんとに不思議だわ。」
「なるほど小石川の方がよく見えるな。あすこの、明(あかる)いところが神楽阪だな。そうすると、あすこが安藤阪(あんどうざか)で、樹の茂ったところが牛天神になるわけだな。おれもあの時分には随分したい放題な真似をしたもんだな。しかし人間一生涯の中に一度でも面白いと思う事があればそれで生れたかいがあるんだ。時節が来たら諦(あきら)めをつけなくっちゃいけない。」

男女の機微、愛憎、駈引、そこはかとない人生の悲哀を描いて出色の名編。テンポと展開があって非常に面白い。

人妻  (網迫の電子テキスト乞校正@Wiki)
掌編。小岩の町外れの家の二階を借りた桑田だが、家の主人の浅野とその妻・年子の性的生活が気になって仕方がなくなり、一日も早く引越したい気になる。豊満な年子にムラムラする桑田だが、浅野が留守の晩に事件が起きて…。「秘密よ。絶対に秘密よ。あなただけしか知ってる人はないんだから。きっとよ」。事件前後での桑田の心境の変化が面白い。引越したいという気持は同じなんだけど…。

墨東綺譚(ぼくとうきたん)』 (青空文庫)  ※「墨」の字は、「さんずい+墨」。
長編。
お雪は倦みつかれたわたくしの心に、偶然過去の世のなつかしい幻影を彷彿たらしめたミューズである──。

家庭を捨て失踪した元教師を主人公とした小説「失踪」の実地観察を兼ねて、色街・玉の井へやって来た老作家・大江匡(ただす)。突然降り出した夕立の中、島田に結った古風ななりをした快活な娼婦・お雪と出会う。

夜の散歩の格好の休憩所を見つけた彼は、毎夜のように足繁く彼女の処へ通うようになるが、女の心が思いもよらず自分の方に向けられていると知り…。

「ねえ、あなた。わたし、借金を返しちまったら。あなた、おかみさんにしてくれない。」
「もう十年わかけれア……。」

二人が初めて出会う夕立の情景が素晴らしく鮮やかで、日本文学史上屈指の名場面だと思う。太宰治の短編「女生徒」の中で、この小説を取り上げた箇所があったので、以下抜粋。

 それでも、まだお風呂がわかないので、墨東綺譚を読み返してみる。書かれてある事実は、決して厭な、汚いものではないのだ。けれども、ところどころ作者の気取りが目について、それがなんだか、やっぱり古い、たよりなさを感じさせるのだ。お年寄りのせいであろうか。でも、外国の作家は、いくらとしとっても、もっと大胆に甘く、対象を愛している。そうして、かえって厭味が無い。けれども、この作品は、日本では、いいほうの部類なのではあるまいか。わりに嘘のない、静かな諦めが、作品の底に感じられてすがすがしい。この作者のものの中でも、これが一ばん枯れていて、私は好きだ。この作者は、とっても責任感の強いひとのような気がする。日本の道徳に、とてもとても、こだわっているので、かえって反撥して、へんにどぎつくなっている作品が多かったような気がする。愛情の深すぎる人に有りがちな偽悪趣味。わざと、あくどい鬼の面をかぶって、それでかえって作品を弱くしている。けれども、この墨東綺譚には、寂しさのある動かない強さが在る。私は、好きだ。



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