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呪われし道 〜大峠越え
大峠函嶺越

国道121号線、大峠は切り拓かれてから300年程の歴史を刻んでいるが、実際に使われた期間実際に半世紀も満たない日陰の道である。
しかし、この大峠越えの道は一部の道マニア以外にも、明治期にこの道路工事を巡って激しい政治闘争が繰り広げられ歴史的事件の切欠となった事でも知られている。
自らの目論見の為に歴史的事件を誘発させたの道マニアなら知らぬ者はいない『あの男』。
しばし、この大峠を巡る物語にしばしお付き合い願いたい




この大峠に初めて道を通そうとしたのは、かの独眼流の名で知られた『伊達政宗』である。
元々、伊達家の本拠地は大峠の麓の米沢であり、戦国期には山向こうの会津を本拠とする葦名氏と半世紀以上攻防を繰り広げていた。
伊達家にとって悩みの種であったのは檜原峠を越えた先の桧原集落に葦名軍による強固な防衛線が張られ、そこを何時までたっても突破する事が出来なかったのである。
何度軍を送り込んでも突破できない『桧原ライン』に業を煮やした政宗が迂回ルートとして新たに開鑿した道こそ「大峠」だったのである。
突貫工事ながら大峠の道を開鑿させたのだが、結局会津進攻に使われる事はなかった。
奇襲攻撃で桧原ラインを突破する事ができちゃったのだ。

で、そのまま折角造った道も所詮突貫工事の道なので殆んど使われる事は無く、江戸時代には若松城主「加藤明成」の命により大峠は閉塞、つまり廃道にされてしまったのだ。


月日はながれ、戦国の覇者 徳川家による江戸幕府は官軍となった薩長連合に破れて崩壊。
最後の将軍慶喜が江戸城を去り、変わって明治天皇が入城し江戸は東京とその名を変え、明治へと時代は移り変わる。

鎖国が終り、外国、主に欧州の人間が数多く日本へと訪れるようになった。
これにより200年近く放置された峠道にも「文明開化」の足音が近づいて来る事になる。
日本各地の地質を調査にやって来たナウマン、コルシェット両博士により大峠直下には世界的に見ても珍しい超良質な石膏が大量に埋蔵されている事がわかったのだ
忘れられていた峠道が一躍、富国強兵に勤めていた日本の産業に大きな利益を齎す宝の山と化したのだ。

そんな時、維新の勝者である薩摩の地から、明治政府の威光を知らしめんが為に東北の地に降り立った男がいる。
そう、あの男『三島通庸』である。

三島も当初からこの大峠に目をつけていたようだが山形県令時代は万世大路やら関山街道等で手一杯だったせいか、大峠には手をつけることは出来なかったようだ。





三島が大峠開鑿に乗り出したのは明治15年、福島県令に着任してからだ。
三島は会津を縦横に横断する道路網『会津三方道路』計画を立ち上げ、その一部として大峠の道路を開鑿する事にした。
元来より利用されていた米沢街道は桧原・蘭・大塩と三つ峠を越えなければならないのに対し、大峠はたった一つの峠を越えるだけで米沢と若松を結ぶ事ができる。
この大峠に近代道路を開鑿し、北東北の流通の円滑と峠直下の鉱物資源の採掘を容易することを狙った・・・

と言うのは表向きの話。
ハナからこの『会津三方道路』は政治的策略を持って立てられた計画であった。
で、『会津三方道路』の裏の目的とは「福島自由党員の徹底的弾圧」 であった。

当時の福島県は全国でも最も自由民権運動が盛んな地域であった。
中でも福島自由党のリーダーであった河野広中は福島県議長を務めながら、全国的に広く活躍し政府に対し国会設立を強く請求し続けた。
一方、江戸幕府と戦い続け、ようやく「天下」を取った薩長閥としちゃあ国会なんてめんどくさい物は造りたくは無い。
そんな小うるさい連中が集まる福島の地に送り込んだのが、人民を力技でねじ伏せる事に定評がある『三島閣下』だった訳。
で、『三島閣下』も県令就任第一声が「火つけ強盗と自由党とは管内に一匹もおかぬ」と戦意旺盛。
三島にとっちゃ自由党なんざ犯罪者の集団と同じのような者だったのだ。

偉大なる『三島閣下』はその「国家転覆を狙う悪党共」と「新道開鑿」を一挙にやってしまうというウルトラC技(業?)をやってのけてしまう。

彼は「会津三方道路」の事業費を捻出する為に県民に多大な負担を負わせる事にする。
男女を問わず15歳から60歳の者を月に一度強制的に道路工事の夫役を課し、これを勤められない者は代夫金を男15銭、女10銭を納めなければならなかった。
月に一度とは言え、今のように交通網が発達した時代とは違い現場までは徒歩で向かわねばならず、実際の所は行きに一日、作業に一日、帰りに一日と実際の所は3日間を拘束される事となる。
さらに病人や女性、高齢者等の体力無い人々にとって山越え等厳しい道程を越えた上にに過酷な労働をする事は不可能近く、多額の代夫金を払い困窮する世帯が耐えなかった。
自由党員が多数を占める県議会はこの三島の「暴政」を強く糾弾するが、三島はそれに対し全く聞く耳を持たない。
それどころか、県の役職の大半を自分の息のかかった者にすげ替え、更には自由党に対抗する組織として『帝政党』を立ち上げさせる。
また彼はかつて戊辰戦争時には敵であった会津藩士を警官等の役人に数多く登用し、自由党関係者を難癖つけるに等しい罪状で次々と捕縛していった。
知識階級である福島自由党員の多くが明治の世になって頭角を現すようになった元町人階層で合ったのに対し、会津に限った話ではないが多くの武士が新しい時代に対応できず路頭に迷う生活をしていた。
そんな士族の不満を汲み上げたというかうまく利用し、再び権力者(の犬)としてそのはけ口を自由党員弾圧へ向けさせた。

暴政と弾圧で民衆の怒りは沸点に達しようとしていたが、それこそが三島の目論み その物であった。
市民の暴発を自ら作り出し、そこから芋づる式に自由党関係者をつるし上げて潰してしまおうという腹であった。

福島自由党指導者の河野広中は三島の魂胆を十分に把握し、関係者達に自重と我慢を訴える。
が、自由党員への弾圧は日に日に増し、路頭に迷う民衆は増えていく状況に、もはや忍耐の限界を越えつつあった。
ついに明治15年11月28日、自由党員やその支持者、そして困窮する民衆達が弾正ヶ原に集結。
会津三方道路計画に反対して投獄された宇田成一の釈放を求め、喜多方警察署へ向かう。
当初は民衆と警察側は睨みあいの状態であったのだが、民衆側から署への投石が切欠となり(警察側の内通者によるものとする説もある)、警官隊が抜刀し民衆の群れになだれ込む。
これにより斬り付けられた民衆2人が重傷を負い、5人が怪我。
民衆は散り散りになって逃げるしかなかった。
だが、この「事件」はこれからが始まりであった。
暴動を扇動したという理由で次々に自由党員が捕縛されていく事となった。
自制を求めた河野も「暴徒の長」として捕縛される。
三島は福島自由党のカリスマであった河野をなんとしても潰したかったらしく、逮捕前に部下に対し「抵抗するようならば斬れ」とすら命じている。
最終的に自由党関係者を2000人近くが逮捕され、三島の『自由党を壊滅させる』という「マニュフェスト」は見事達成される事となった。
一仕事を終えた三島はホクホク顔で『 福島県稟告奸民暴挙ノ件 』というレポートに纏めて内務卿 山田顕義に提出した

こうして多くの人たちの怨嗟の呻きと共に工事は進められ、明治17年に大峠隧道を含む福島側の道が完成し、明治19年に山形側完成をもって大峠越えの道が開通した。
だが開通したのは良いが交通量極少でまともに手も入れられず、たった一年やそこらの間に隧道内部が崩れて梯子で上り下りしなければ取れないような有様になってしまったと言う。(ただ、明治21年に磐梯山が噴火しているのでその影響もあるかもしれない)
明治後期になってようやく本来の目的であった鉱山道路として活用されるようになり、大正3年に馬車道化、昭和7〜9年にかけて近代化工事を受けて車道化し、
その後幾多かの小規模改修を受けて最終的にバイパスが開通する平成9年まで使われる事となった。

平成21年時点でもこの道は国道121号線として指定されているが、 レポ でご覧の通り完全に管理を放棄された廃道である。
残されたバイパスの未通区間が開通した時、法的にも大峠越えの道は放棄され地図上からも抹消される事になるだろう。

多くの人々を犠牲にして生まれたこの道は、もしかしたら逸早くその日が来るのを望んでいるのかもしれない。




参照サイト

Wikipedia
旧道倶楽部
国立公文書館
国立国会図書館
DTM
明治・その時代を考えよう

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