このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
国道121号線、大峠は切り拓かれてから300年程の歴史を刻んでいるが、実際に使われた期間実際に半世紀も満たない日陰の道である。
しかし、この大峠越えの道は一部の道マニア以外にも、明治期にこの道路工事を巡って激しい政治闘争が繰り広げられ歴史的事件の切欠となった事でも知られている。
自らの目論見の為に歴史的事件を誘発させたの道マニアなら知らぬ者はいない『あの男』。
しばし、この大峠を巡る物語にしばしお付き合い願いたい
偉大なる『三島閣下』はその「国家転覆を狙う悪党共」と「新道開鑿」を一挙にやってしまうというウルトラC技(業?)をやってのけてしまう。
彼は「会津三方道路」の事業費を捻出する為に県民に多大な負担を負わせる事にする。
男女を問わず15歳から60歳の者を月に一度強制的に道路工事の夫役を課し、これを勤められない者は代夫金を男15銭、女10銭を納めなければならなかった。
月に一度とは言え、今のように交通網が発達した時代とは違い現場までは徒歩で向かわねばならず、実際の所は行きに一日、作業に一日、帰りに一日と実際の所は3日間を拘束される事となる。
さらに病人や女性、高齢者等の体力無い人々にとって山越え等厳しい道程を越えた上にに過酷な労働をする事は不可能近く、多額の代夫金を払い困窮する世帯が耐えなかった。
自由党員が多数を占める県議会はこの三島の「暴政」を強く糾弾するが、三島はそれに対し全く聞く耳を持たない。
それどころか、県の役職の大半を自分の息のかかった者にすげ替え、更には自由党に対抗する組織として『帝政党』を立ち上げさせる。
また彼はかつて戊辰戦争時には敵であった会津藩士を警官等の役人に数多く登用し、自由党関係者を難癖つけるに等しい罪状で次々と捕縛していった。
知識階級である福島自由党員の多くが明治の世になって頭角を現すようになった元町人階層で合ったのに対し、会津に限った話ではないが多くの武士が新しい時代に対応できず路頭に迷う生活をしていた。
そんな士族の不満を汲み上げたというかうまく利用し、再び権力者(の犬)としてそのはけ口を自由党員弾圧へ向けさせた。
暴政と弾圧で民衆の怒りは沸点に達しようとしていたが、それこそが三島の目論み その物であった。
市民の暴発を自ら作り出し、そこから芋づる式に自由党関係者をつるし上げて潰してしまおうという腹であった。
福島自由党指導者の河野広中は三島の魂胆を十分に把握し、関係者達に自重と我慢を訴える。
が、自由党員への弾圧は日に日に増し、路頭に迷う民衆は増えていく状況に、もはや忍耐の限界を越えつつあった。
ついに明治15年11月28日、自由党員やその支持者、そして困窮する民衆達が弾正ヶ原に集結。
会津三方道路計画に反対して投獄された宇田成一の釈放を求め、喜多方警察署へ向かう。
当初は民衆と警察側は睨みあいの状態であったのだが、民衆側から署への投石が切欠となり(警察側の内通者によるものとする説もある)、警官隊が抜刀し民衆の群れになだれ込む。
これにより斬り付けられた民衆2人が重傷を負い、5人が怪我。
民衆は散り散りになって逃げるしかなかった。
だが、この「事件」はこれからが始まりであった。
暴動を扇動したという理由で次々に自由党員が捕縛されていく事となった。
自制を求めた河野も「暴徒の長」として捕縛される。
三島は福島自由党のカリスマであった河野をなんとしても潰したかったらしく、逮捕前に部下に対し「抵抗するようならば斬れ」とすら命じている。
最終的に自由党関係者を2000人近くが逮捕され、三島の『自由党を壊滅させる』という「マニュフェスト」は見事達成される事となった。
一仕事を終えた三島はホクホク顔で『
福島県稟告奸民暴挙ノ件
』というレポートに纏めて内務卿 山田顕義に提出した
こうして多くの人たちの怨嗟の呻きと共に工事は進められ、明治17年に大峠隧道を含む福島側の道が完成し、明治19年に山形側完成をもって大峠越えの道が開通した。
だが開通したのは良いが交通量極少でまともに手も入れられず、たった一年やそこらの間に隧道内部が崩れて梯子で上り下りしなければ取れないような有様になってしまったと言う。(ただ、明治21年に磐梯山が噴火しているのでその影響もあるかもしれない)
明治後期になってようやく本来の目的であった鉱山道路として活用されるようになり、大正3年に馬車道化、昭和7〜9年にかけて近代化工事を受けて車道化し、
その後幾多かの小規模改修を受けて最終的にバイパスが開通する平成9年まで使われる事となった。
平成21年時点でもこの道は国道121号線として指定されているが、
レポ
でご覧の通り完全に管理を放棄された廃道である。
残されたバイパスの未通区間が開通した時、法的にも大峠越えの道は放棄され地図上からも抹消される事になるだろう。
多くの人々を犠牲にして生まれたこの道は、もしかしたら逸早くその日が来るのを望んでいるのかもしれない。
参照サイト
Wikipedia
旧道倶楽部
国立公文書館
国立国会図書館
DTM
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