さて、『古道・山陰道』であると思われるr271.
一通りのこの道の様子を見てみても、単なるローカル県道では無い事を窺わせるのだが、いざこの道の事を調べると
ビックリするほど資料がない
天下の主要街道である山陰道の事だからググれば幾つか資料がでてくるだろ、とか思っていたら全然でてきやしねェ。
ただ、幾つかの情報を集めて おぼろげながら見えてきたのが、どうもこの道「古道」を更に越えて
『古代・山陰道』みたいなのだ。
実は今現在、古代律令制時代に制定された『初代・山陰道』のルートは諸説があってハッキリしていない。
しかし、この古代・山陰道の宿駅に郡部(こおりべ)・養耆(やぎ)と言う地名があり、前者が養父町広谷、後者が八鹿町八木と言う説がある。
更に京から出雲方面へ上がってくる際に「はさまじ峠」と言う峠を越えるのだが、ちょうどr271とR9の重複区間の峠が「谷間地(はさまじ)」と呼ばれる地域なのだ。
そして「はさまじ峠」の次に
『一重坂』と言う山道があるのだが、これがr271の未通区間にあたるようなのだ。
自分は全く気付かなかったのだが、実は未通区間出口付近の墓場の中に
『一枝坂』と刻まれた石碑があり、一重坂、一枝坂のどちらも
『ひとえ坂』と読む事が出来、つまり
『ひとえ坂=古代・山陰道?』と考えられるのである。
自分の中で最大の疑問点であったのは「r271(古代・山陰道?)」と「旧・R9(近代・山陰道)」の関係である。
旧・R9は山を川沿いに迂回し旧・八鹿町市街地を通り鳥取方面へと向かっている。
八鹿は山陰道の宿場町であり、陸路以外にも舟運の中継地として栄え、ちょうど市街地が八木川と円山川に挟まれた三角州地帯にあるのはこの為と思われる。
一方、r271「ひとえ坂」は山を中央突破し、八鹿の「現在」の中心部からやや離れた場所を通る形となってしまっている。
だが、以外にも上記の事が「ひとえ坂」を律令時代の道である事を物語っているのである。
8世紀ごろ、ようやく日本に大和朝廷を中心とした国家体制が整い始め、それに伴い全国支配をより強固にする為の街道整備がされるようになった。
『五畿七道』と呼ばれる近畿地方を中心に、七方面に伸びる街道を軸とした地方区分が成立した。
東海道や山陽道と呼ばれる今なお重要な街道の原形もこの時に出来、山陰道もその一つである。
この古代街道の開鑿の際、
「とにかく目的地へ最短ルートで結ぶ」「水害を避けるため出来うるだけ内陸部を通る」と言う点が重視された。
「ひとえ坂」はまさにこの条件に当てはまるのである。
もう一つ、古代街道のスペックとして「幅員6m以上」と言うのがあるのだが、「ひとえ坂」の幅員は目測3mちょっとなのでコレには少し足りない。
ただ、地方のローカル区間なのでそこまで幅員広くする必要も無かったのでは?と考えられる。
おそらく、ある程度治水技術が向上した時点で近代・山陰道に主要街道の座を明け渡したのだろう。
しかし、「山陰〜京都への最短路」と言う事もありショートカット路として、その後もそれなりに交通量があったと思われる。
とくに八鹿側から下って行く場合、緩やかに山を越えられるので山陰からの旅人には重宝されたであろう
実際に明治期になっても草相撲の力士の引退巡業のルートにこの坂が使われたと言う記録も残っている。
ん?もしかしたら明治期にもそれなり交通量があったとされるならば、既にこの時に県道指定され、そのまま成り行きで現在も県道となっている可能性は高そうだ。
明治県道は未車道規格の物がザラだった訳だし。
予想するに車両交通が発達するまで、大量・大物輸送は八鹿宿周りの近代・山陰道、もしくは舟運。
スピードを要求される移動には「ひとえ坂」という使い分けが出来ていたのではないかと考えられる。
そして車社会が発達するにつれ、旧・養父町側が急勾配すぎて車道化する事ができず、徐々に忘れ去られた道となっていったのではないのか。
21世紀となった現在、かつてここが重要な道であった事は現地の人のみとなってしまったのだろう。
峠であったおじさんの話の他に、もうひとつこの道の歴史を知る手がかりとなった物のも地元サイトだったのだ。
そのサイトはr271沿いにある小学校「養父市立広谷小学校」の物であった(下から3段目の画像に写っている左側施設が実はその校舎)
溢れんばかりにある膨大なネット情報の中で、唯一このサイトだけが「ひとえ坂」を扱っていた。
この情報が無ければ、「ひとえ坂」と言う名も解らなかったし、ココまで古代・山陰道である事を確証できなかったと思う(ただ可能性が高いだけで絶対とも言い切れないのだが。)
だが残念ながら、いまこの情報をwebで閲覧する事は出来なくなってしまっている。
実は丁度この道について調べている最中に、なんと この「ひとえ坂」に関するページが削れてしまったのだ。
「ヤバイ!」と思ってグーグルのキャッシュ機能を使い、残っているソースを何とかコピーして資料として残した。
今現在は全くヒットしなくなってしまっている。
「ひとえ坂」のページを削った理由は解らないが貴重な道の歴史を物語ってくれる情報が消えてしまったのは非常に残念である。
メール欄があれば割と気軽に復活希望メールを送信できるのだが、スパム・ウィルス排除の為か見当たらなかった。
あとは電話番号を調べ直接連絡すると言う方法があるが、なんか怪しまれそうだなァ・・・。
ちなみ、第一ソースは「養父町史」だそうだ。
これを図書館なりで借りる事ができれば、「ひとえ坂」に関して今なお調べる事が出来る。
1000年以上の歴史を誇る古代の道、もっと多くの人に知ってもらいたい。
明治2年の地蔵でさえ、この道の歴史に比べれば新しく感じる。