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兵庫県道271号線



兵庫県養父市
平成21年6月19日 来訪



「兄ちゃん、ココ通るの始めてかぁ?」
それが彼の第一声だった。

峠の地蔵についてアレコレ考えていて、
この時すぐ近くまで人が来ているのにまったく気付かなかった。
いきなり声をかけられ少しばかり驚きつつ横を見ると、
いかにも散歩中と言ったラフな格好の中年男性が峠の南側からやってきた。

特に通行禁止とかの立て札は無かったが、
よその人間が勝手にバイクで山に入り込んでいる訳なので
もしかしたら怒られちゃうかもと少なからず動揺していた。

しかし、何も言わず逃げ出すのもなんなんで、
「趣味でいろんな所の道の調べているですよー。」
みたいな事を言ってみた。(嘘ではない)

だが、言ってみるものだ。
この一言で重要な情報を引き出すことに成功したのだ。


「ふーん、じゃあ北側に『伊勢神宮まで何々って』刻まれた石碑があったろ?」


・・・なんですと、伊勢神宮ッスか。
つまりアレですか、この道はお伊勢様参りに使われていた道って事ッスか。
お伊勢参りにも使われる重要な街道。

導かれる答えは・・・



古道・山陰道。

気なる点も幾つかあるが、その考察は後にしよう。

更に彼は言う
「この県道、コンクリが敷かれてるだろ。アレは電話線が埋められてんだよ。」
・・・ちゃんと地元民も県道として認識してるんだ・・・。
ともかく、路面中央が何故コンクリなのかもこれで判明。
やはり現地情報は偉大である。

ついでにこの先もバイクで行けるか聞いてみた。
「うーん、途中に倒木があるけどバイクなら行けるんじゃない?」
との事。

様々な貴重な情報を与えてくれた恩人に感謝をしつつ
峠を越え下り坂へと向かった。





下りの出だしは至って穏やか。
『電話線埋設コンクリも一緒に峠を越え、相変わらず路面はボコボコしているが、この時点ではそれ程に気になる事は無かった。

徐々に下って行くと・・・























こんな感じになりますた。

こんな感じって、どういう感じと言われれば画像そのままの感じです。
ペットボトル内の烏龍茶の水面が水平の状態。
そして後のバイクの状態が路面の傾きです。








暗峠の勾配





比較対照として暗峠の画像をどうぞ。
撮っている角度が違うので確実とは言いがたいのだが、どうも此方の方がキツイ様な気がするのだが。

まあ、暗峠は一応アレでも国道。
しかし、r271は天下無敵の未通県道なり。
つーか、間違いなくコレ車道化してないね。












凶悪勾配に加え、上りではさほど気にならなかった丸石入りコンクリ路面がココに来て牙をむくようになる。
ボコボコの路面によりアッチコッチへとフロントタイヤが持っていかれ、更に意思に関わらず猛烈な重力により一速でもガンガンに加速していくので、恐ろしいほどコントロールが利かない

ゆるゆる登っていた八鹿側に対し、急勾配の登山道状態の養父側。
この険しさゆえに車道化できなかったのも、うなずける。
r271が近代車道化となるには直下にトンネルを貫くしかないが、すぐ横にバイパス9号のトンネルがあるので、おそらく永遠にこの道が未通県道を脱する事はないだろう。

では、なんでこんな道が県道指定されたかと考えると、やはり電話線を管理する為だろうか。
しかし、この電話線も現在使われていないようで、『情報の道』としても既に過去の道と化している。


















地元民情報どおり、倒木が現れる。
しかし、たった一本。
根元から通ればそれほど苦労する事は無い。
ここは重力の恩恵を受けて勢い任せに跨いでいく。






















ようやく山林を抜けると、そこは墓場だった。





















墓場の通路を抜ける一台のバイク。
この上なくシュールな光景だが、ココが県道なのだからしょうがない。
立ち並ぶ墓石の中には野仏のような古い墓石も混じっている
果たして幾年もの月日を、この山の上から下界を見守ってきたのであろう



















墓場を出ると、ようやく坂が終り麓の市街地に出る。
一応、丁字路の右手が県道。

実は最初はこっちの南側からアプローチしようとしたのだが、さっぱり峠道の入口が分からず、市街地を迷走した後に仕方なく南側からアタックしたのである。
この場所も一度通り過ぎているだが、まさか墓場の入口が県道とは思いもつかん。
ちなみに①でも記述したとおりに、南側からの攻略もルートミスで一度失敗。
旧養父・八鹿町境の山を行ったり来たりの探索であった。















墓場の通路から市街地の二車線路に変貌を遂げたr271。
ここいら一体は旧・養父町の中心地で銀行や郵便局、旧町役場がr271に沿って立ち並んでいる。
この事からも、やはりr271が古くから町の形成に影響を与える程の道で会った事が窺える。

ちなみにこの地区は旧・養父町の中心部ではあったが、昭和32年までは『広谷町』と言う自治体であり、元祖・養父(養父市場)は朝来市境近くの 円山川沿いの谷間の地域 である。
更に現在の養父市役所は旧・八鹿町役場を使用しており、合併の度に名前は残るが元々の地区から役場がどんどん離れていく結果になってしまっている













大屋川を渡って上野地区に入ると一気に古街道の雰囲気が強くなる。

r271の路線名は『朝倉養父停車場』であり、名称の通りこの道の終点は山陰本線の養父駅である。
養父駅は明治41年に開設された古い駅であるが、かつては『養父町』でも『養父郡』でもなく、お隣の『和田山町(現・朝来市)』に属していた。
昭和32年に町の境が変更され、晴れて駅名どおり養父町に属するようになったが、中心地である広谷地区からは2km以上離れていて、小さいながら峠を一つ越えなければならなかった。
一応現在、r271を通って広谷地区と養父駅を結ぶバスはあるのだが、月・水・木に週3日しか運行していない。

また前述のとおり現在、養父市役所は旧・八鹿町にあり、市の中心部と駅名が全く一致して無いという状況になってしまっている。

なんというか、役場と言い、駅と言い、養父と言う地名は中心が定まらずふわふわ浮いてしまっているような気がする。











古い家並みの合間を進みようやく、現・山陰道であるR9に再合流。
分岐地点が緩やかなY字路と言うあたりも、いかにもと言った感じだ。
この後r271は、峠越えの区間だけR9と重複し、その後再び分岐して後述の通り、養父駅で終点となる












長文注意!

兵庫県道271号線・未通区間の考察

さて、『古道・山陰道』であると思われるr271.
一通りのこの道の様子を見てみても、単なるローカル県道では無い事を窺わせるのだが、いざこの道の事を調べるとビックリするほど資料がない
天下の主要街道である山陰道の事だからググれば幾つか資料がでてくるだろ、とか思っていたら全然でてきやしねェ。

ただ、幾つかの情報を集めて おぼろげながら見えてきたのが、どうもこの道「古道」を更に越えて『古代・山陰道』みたいなのだ。
実は今現在、古代律令制時代に制定された『初代・山陰道』のルートは諸説があってハッキリしていない。
しかし、この古代・山陰道の宿駅に郡部(こおりべ)・養耆(やぎ)と言う地名があり、前者が養父町広谷、後者が八鹿町八木と言う説がある。
更に京から出雲方面へ上がってくる際に「はさまじ峠」と言う峠を越えるのだが、ちょうどr271とR9の重複区間の峠が「谷間地(はさまじ)」と呼ばれる地域なのだ。
そして「はさまじ峠」の次に『一重坂』と言う山道があるのだが、これがr271の未通区間にあたるようなのだ
自分は全く気付かなかったのだが、実は未通区間出口付近の墓場の中に『一枝坂』と刻まれた石碑があり、一重坂、一枝坂のどちらも『ひとえ坂』と読む事が出来、つまり『ひとえ坂=古代・山陰道?』と考えられるのである。

自分の中で最大の疑問点であったのは「r271(古代・山陰道?)」と「旧・R9(近代・山陰道)」の関係である。
旧・R9は山を川沿いに迂回し旧・八鹿町市街地を通り鳥取方面へと向かっている。
八鹿は山陰道の宿場町であり、陸路以外にも舟運の中継地として栄え、ちょうど市街地が八木川と円山川に挟まれた三角州地帯にあるのはこの為と思われる。
一方、r271「ひとえ坂」は山を中央突破し、八鹿の「現在」の中心部からやや離れた場所を通る形となってしまっている。
だが、以外にも上記の事が「ひとえ坂」を律令時代の道である事を物語っているのである。

8世紀ごろ、ようやく日本に大和朝廷を中心とした国家体制が整い始め、それに伴い全国支配をより強固にする為の街道整備がされるようになった。
『五畿七道』と呼ばれる近畿地方を中心に、七方面に伸びる街道を軸とした地方区分が成立した。
東海道や山陽道と呼ばれる今なお重要な街道の原形もこの時に出来、山陰道もその一つである。
この古代街道の開鑿の際、「とにかく目的地へ最短ルートで結ぶ」「水害を避けるため出来うるだけ内陸部を通る」と言う点が重視された。
「ひとえ坂」はまさにこの条件に当てはまるのである。
もう一つ、古代街道のスペックとして「幅員6m以上」と言うのがあるのだが、「ひとえ坂」の幅員は目測3mちょっとなのでコレには少し足りない。
ただ、地方のローカル区間なのでそこまで幅員広くする必要も無かったのでは?と考えられる。

おそらく、ある程度治水技術が向上した時点で近代・山陰道に主要街道の座を明け渡したのだろう。
しかし、「山陰〜京都への最短路」と言う事もありショートカット路として、その後もそれなりに交通量があったと思われる。
とくに八鹿側から下って行く場合、緩やかに山を越えられるので山陰からの旅人には重宝されたであろう
実際に明治期になっても草相撲の力士の引退巡業のルートにこの坂が使われたと言う記録も残っている。
ん?もしかしたら明治期にもそれなり交通量があったとされるならば、既にこの時に県道指定され、そのまま成り行きで現在も県道となっている可能性は高そうだ。
明治県道は未車道規格の物がザラだった訳だし。

予想するに車両交通が発達するまで、大量・大物輸送は八鹿宿周りの近代・山陰道、もしくは舟運。
スピードを要求される移動には「ひとえ坂」という使い分けが出来ていたのではないかと考えられる。

そして車社会が発達するにつれ、旧・養父町側が急勾配すぎて車道化する事ができず、徐々に忘れ去られた道となっていったのではないのか。
21世紀となった現在、かつてここが重要な道であった事は現地の人のみとなってしまったのだろう。

峠であったおじさんの話の他に、もうひとつこの道の歴史を知る手がかりとなった物のも地元サイトだったのだ。
そのサイトはr271沿いにある小学校「養父市立広谷小学校」の物であった(下から3段目の画像に写っている左側施設が実はその校舎)
溢れんばかりにある膨大なネット情報の中で、唯一このサイトだけが「ひとえ坂」を扱っていた。
この情報が無ければ、「ひとえ坂」と言う名も解らなかったし、ココまで古代・山陰道である事を確証できなかったと思う(ただ可能性が高いだけで絶対とも言い切れないのだが。)
だが残念ながら、いまこの情報をwebで閲覧する事は出来なくなってしまっている。
実は丁度この道について調べている最中に、なんと この「ひとえ坂」に関するページが削れてしまったのだ。
「ヤバイ!」と思ってグーグルのキャッシュ機能を使い、残っているソースを何とかコピーして資料として残した。
今現在は全くヒットしなくなってしまっている。

「ひとえ坂」のページを削った理由は解らないが貴重な道の歴史を物語ってくれる情報が消えてしまったのは非常に残念である。
メール欄があれば割と気軽に復活希望メールを送信できるのだが、スパム・ウィルス排除の為か見当たらなかった。
あとは電話番号を調べ直接連絡すると言う方法があるが、なんか怪しまれそうだなァ・・・。

ちなみ、第一ソースは「養父町史」だそうだ。
これを図書館なりで借りる事ができれば、「ひとえ坂」に関して今なお調べる事が出来る。


1000年以上の歴史を誇る古代の道、もっと多くの人に知ってもらいたい。
明治2年の地蔵でさえ、この道の歴史に比べれば新しく感じる。


参照サイト

丹国前向き新聞
玄松子の記憶 / 延喜式神名帳
隆慶一郎わーるど / 歴史地理・地名便覧
wik・日本の古代道路
養父市立広谷小学校 (左下の空欄セルの所に「ひとえ坂」ページのリンクがあった)


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