このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

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万世橋+α
旧国道13号線
山形県米沢市
2007・10・6 来訪

人通りが多いために、反対に見向きもされない遺構。

そして多くの車が行き交う中、ひっそりと消えていくのだ。


それは、旧・万世大路山形側へ向かっていた時の事。

丁度、西栗子トンネルの中間点辺りでものすごーく『大きい方』がしたくなり、どこかでトイレを借りる為に麓まで降りる事にした。
峠道が終われば、すぐにコンビニか何かあるだろうと思ったが、残念ながら救いの主はなかなか現れない。
しばらくしてガススタが現れたのだが、給油もしないのに(福島市内ですでに給油)トイレだけ借りるのは何か気まずい。
市街地まで入ってようやくコンビニを見つけ、飛び込むように入店しトイレを借りる。

・・・ふう、助かった。

申し訳程度にコーヒー買って店を出る。
さて、山へ向かうとするか。

今来た道を再び戻っていくと、現道横に旧道と思しき2車線の古びたアスファルトが現れた。

バイクを置いて旧道を歩いていくとやがて羽黒川を渡る橋に差し掛かる
旧・万世橋である。
旧橋は現道と並んで架かっており、歩行者専用橋として使われてた。
元々車道の橋なので一人歩いていると、ムダに広い幅員がなんか落ちつかない
とは言え、車道としては2車線ギリギリで少々手狭。
大型車同士の離合は流石に厳しそう。
路面の上だけ見ていると、昭和中期の橋に見えるが、横から見てみれば明らかに戦前物のデザインである事に気付く。
そう、これは栗子隧道や二ツ小屋隧道が改修された時にできた橋なのだ。
鉄製の欄干は後年に後付で付けられた物である。

鉄製の欄干が取り付けられる前は橋と一体化されたコンクリの欄干だったようだ。
築堤に残る切り離された欄干のようなデザインだったのだろう。
大正期や昭和初期はようやくコンクリが出回り始めた頃で、建設技術も確立されてなかったし、高価だったコンクリをケチる為に砂利の配合を多くした粗悪な物も多かったらしい。
その為か風化も早く、福島側にある烏川橋の欄干は朽ち果て大部分が欠損している(ただ、ここは谷間から吹き付ける風をモロにうける悪条件故に風化が早かったのかもしれない。)
放棄された峠の旧道と違い、万世橋は新道ができた後もしばらく現役であった為、多少改築されて使用されたようだ。

万世橋の歩道も鉄製欄干等を付けた時の改装時に増設されたようだ。
改装完了を示す扁額を見つけることができ無かったが、おそらくこれ等の改装は現在の峠道である『栗子ハイウェイ』にあわせた物であろう。
峠の改良で交通量が爆発的に増える事は間違いなく、事故防止の為には歩道の増設は必然であった。
橋の袂には、木々に隠れながらも橋梁名看板も残っていた。

様々な改良されながらも、21世紀までの残っていた万世橋。
オリジナルの姿とはだいぶ姿が変わってしまったのであろうが、それだけ現役の橋(車道としては引退したが)として多くの人々利用され活躍して来たと言う事だ。


・・・だが、恐らくこの橋の最後のレポとなるだろう。
そう、この時 旧・万世橋は老朽化と現道の改修、もしく新橋建設の為の撤去工事を控えていたのだ。
万世橋と同時期に架けられた烏川橋、新沢橋は放棄されたお陰で、ボロボロになりながらも今だ現存している。
だが、万世橋は人里近くだった為に他の『兄弟達』よりも早くその歴史を閉じる事になってしまったのだ。

古い橋ではあるが、特別凝ったデザインをしている訳でも無く
後年に改修され前述のとおり一見は昭和中期の平凡な橋に見える。
恐らく地元の人々には「タダの古い橋」としか認識されてなかっただろうし、
これを遺構だなんて思う人も少ないだろう。
たぶん自分も撤去工事の事に気付かなければスルーしていたかもしれない。

でも、万世橋の終焉間際に出くわしたのも何かの縁。

そっと70年近く働き続けた寡黙な老橋に
「お疲れ様」
と言いたい。





オマケ1
万世大路記念公園(刈安除雪ステーション)
国道13号線栗子峠米沢側の途中に
除雪ステーションの一部を利用した万世大路の記念公園がある。
やや放置プレイ気味でどれだけの人間が立ち寄っているのか分からないが
この道の歴史に興味がある人間ならなかなか面白い史跡があるので
機会があったら一度立ち寄ってみて欲しい。

旧道と現道のルートを載せた地図。
ただ、一部に旧国道で無いルートがw(画像にポインターを)
まあ、現在の実質上の旧国道へ正規ルートになってしまっているが。
(国土地理院の地形図でも作業路の方で繋がっている)

また改めてみると旧国道の方が米沢への直線ルート(ただし九十九折れ満載)になっているのに対し
現国道は険しい地形を回避する為にやや遠回りになってしまっている。
一方、現在工事中の東北中央道『栗子トンネル』は
旧道の下を長大トンネルでパスするルートになっており、
初代万世大路への先祖がえりのような形になっている。


高橋由一が描いた初代栗子隧道。

高橋由一は日本の油絵の先駆者であるが、
彼のパトロンに万世大路の立役者である三島通庸がいた。

三島は自らの偉業を後世に残すべく、高橋に栗子山隧道や大峠の絵を描かせたのである。
高橋は三島に絵画の才能を提供する代わりに
多額の資金を得て己が求める美の境地を深めていく。

そして高橋は代表作『 』を描き『和製洋画』の確立し芸術家としての頂点へ至るのである。
こちらは初代栗子山隧道に残るノミの跡のレプリカ。
ヒーヒー廃道を辿って行かなくても手軽に明治の息吹を感じる事ができる。

が、レプリカはレプリカ。

やはり、「本物」の感動には敵わないのである。
公園の端の方には万世大路に纏わる何点かの石碑がある。
 

左側画像『栗子神社』の碑

元々栗子隧道山形側坑口付近にあった物を此処に移動させた。
この神社には米沢藩の名君「上杉鷹山」と、
栗子新道開削の理解者であった明治政府の大物「大久保利通」が奉られていた。
後年には万世大路の代名詞とも言える「三島通庸」も奉られるようになった。


右側画像『鳳駕駐蹕之蹟』

万世大路の数箇所に残る明治帝休憩地点の碑。
やはり栗子隧道近くにあった物を移動させたのか?

こちらは昭和の大改修の記念碑。
裏側(画像右)には工事の年月と掛かった工費、そして担当した土木官庁が表記されている


オマケ2
刈安隧道跡
明治14年に万世大路が開通した当初、ここには「刈安隧道」と言う短い隧道があった。
昭和8年〜12年にかけての大改修時に他の隧道が改修され使われ続けたのに対し
刈安隧道は上層の土かぶりが薄かったために切り崩された。
おそらく「栗子ハイウェイ」工事の際に、
幅員を広げる為に更に掘り下げられていると思われる。

故に現在、かつて隧道があったと思わせる痕跡は全く無く
この深い切通しから「昔、隧道があったかも」と想像させる他に無いのである。


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