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かつて国道291号線に信じられないトンネルがあった。
延長922mもありながら、坑内は素彫り、幅員が軽自動車がなんとか入れるぐらいと言うとんでもないスペック。
正直、「コレ、歩道トンネルですか?」と思ってしまうぐらいの狭さであるが、
確実に1998年までは車道の国道トンネルであったのだ。
なぜ、こんなトンネルが国道になってしまったのか?
昭和51年の夏、東京拘置所に一通の手記が届けられた。
この拘置所の拘禁されたある男に当てられたものであった。
その手記の題名は「中山隧道の記録」。
それから3年後、拘置所で手記を読んだ男がこの中山隧道へやってきた。
男は周りの静止も聞かず、暗闇に包まれた隧道を黙々と歩き続けたと言う。
そして更に3年の月日が立った。
建設省で審議されていた中山隧道の国道昇格が実現し、小出〜小千谷間の幹線道路の一部となる。
この中山隧道の国道昇格へは間違いなく男の働きかけによるものだった。
その男の名は「田中角栄」。
当時もっとも日本で影響力があった人物である。
かつての最高権力者をも動かした隧道。
2006年6月、その中山隧道へ僕は訪れた。
まだ、朝早い午前5時。 あたり深い霧が立ち込め視界が極度に悪い。 実はこの日、中山隧道へ向かう予定はなかったのだが、たまたま旭隧道へ向かうルートの近くにあった為に寄ってみた訳である。 ただ、通り抜け出来るとは思っておらず坑口付近の写真を撮れたらOKってな感じで、更に言えば現R291すら通り抜けられるかさえ疑問であった。 実際には現中山トンネルまで問題なくたどりつけられたのだが、この先小千谷方面へは通行止めになっていた。 この通行止めの理由。 2004年10月23日に発生した新潟県中越地震による道路崩壊。 この時、すでに発生より一年半を過ぎているのだが未だに傷のいえてない地区が多くあるのだ | |
さて、中山隧道へのアプローチだが自分は最初、何処にあるのかわからなかった。 一応、トンネルの横にショボイ道があるのだが農道だと思いスルーしてしまったのだ。 ところがどっこい、そのショボ農道に見えたその道こそ中山隧道への道だったのである。 ・・・ちょっと、待ちたまえ。 いくらなんでも旧国道がこれでいいの? ほら、この隣の画像の九十九折れなんてどう考えてみても林道規格だぞ。 まあ後で調べた所、この道は後付の道で本来の旧国道は現トンネルを開削するときに崩されたようだ。 さすがに元国道なのにコレはないよね〜。 って、この後ぜったいに国道とは思えない隧道が現れるのだが。 | |
坂を登りきると、なにやらイカしたオープンカーが置かれていました。 ここらで旧国道と合流しているのだろう。 オープンカーの向こうに真新しい法面が見える。 | |
ん〜、なんかちっこい「穴」が見えてきましたよ。 | |
ホントにちいせぇな。 これが旧国道291号線、中山隧道です。 カブと対比してみてもらえばわかるが、どう見ても歩行者隧道です。 これ、マジで車道だったのか? 案外、昔の地図みたら点線国道とかになってんじゃないのか? しかし、これが普通に国道として表記されていたらエライ事である。 何も知らない余所者が国道だと思って通ろうしたら、ありえない隧道が現れる訳である。 うーん、恐ろしい。 てか、先ほどのオープンカー。 もしかしたら中山隧道専用作業車なのかもしれない。 あれなら車に乗りながら補修作業できるぞ。 取りあえず坑口付近の写真を撮る事は出来た。 最初にも言った通り中山隧道はてっきり通行止め、もしくは歩行者専用道になっていると思っていた。 ところが、ゲートも無ければ車両通行止めの標識も無い。 逝っちゃっていいの? 逝かせてもらいますよ? 逝ってやるぜ! いざ、突貫! | |
えーと、何処の鉱山でしょうか? 気分はゴールドラッシュの佐渡島。 幾つかの素彫り隧道を見てきましたがこういう補強は初めてです。 だけど変に補強板やコンクリで固められるより、雰囲気があってGOOD. . | |
東側坑口付近は地下水の染み出しがひどく、路面はぐちゃぐちゃ。 それがいっそう鉱山の坑道っぽく感じさせる。 | |
補強区間を過ぎると坑内上部が三角形となる。 観音掘りってやつか。 それにしても狭い。 旭隧道 も狭かったがこちらはそれを上回る狭さ。 | |
どうやら離合地点らしい。 それでも1、3車線ぐらいしかないぞ! つか、車の離合できるのか? 国道とかという問題ではなく車道トンネルとしてどうよ?って気がする。 | |
隧道の中心部近くまで入り、前も後も真っ暗と言う中にこのような案内板が。 どうやら此処が開削時の貫通点だったようだ。 この隧道開削については後で語るが、西と東から掘り続けた穴が此処で繋がったと言うわけだ。 この貫通した時の工事関係者の喜びは計り知れないだろう。 | |
最深部を越え、ようやく小さな光が見え始めた。 隧道の西側部分には数匹のコウモリが住んでいて、突然現れた招かれざる客に驚き、本来苦手なはずの光の方へ飛び去っていった。 ちょっと申し訳ない気分。 小さかった光も徐々に大きくなり出口まであと少し。 一応、現役時には照明も付いていて現在も一応蛍光灯が用意されている。 しかし、昭和56年まで照明設備は付いていなかったようで、徒歩でなら10分近い間この暗黒世界に身を投じなければ通過できなかったのだ。 | |
延長875m(922mとの記載もあるが、現在、少し短くなった可能性がある)の隧道を抜け現・長岡市、かつての山古志村へと入る。 こちら側も装飾されているせいもあるが、どうしても歩道隧道にしか見えない。 坑口付近には駐車場があり、おそらく隧道見学にくる人々の為に用意しているのだろう。 魚沼市側の坑口は旧隧道の方が一段高い所にあったのだが、山古志側では新・旧共に坑口が並んでいる。 | |
山古志側坑口には幾つか中山隧道に関する資料が展示されている。 隧道開通以前、四方を山に囲まれ病院も商店も無い山村であった山古志村は、 地名の如く「山を越す」事によって生活を支えていた。 しかし、冬になれば豪雪地帯ゆえに山は背丈より高い雪に覆われ、峠越えはそれこそ命懸けの行為となる。 それでも、生活なり人の命なりが係れば例え吹雪の中でも峠を越さねばならない。 実際に峠の途中で力尽き亡くなった方も少なくなかったようだ。 そんな峠越えを少しでも緩和しようと隧道開削の話が持ち上がる。 一度は話がまとまらず計画が見送られたものの、 再度村の有力者達の話会いがもたれ有志による隧道開削が決定される。 工事は農閑期の冬場のみ行なわれ、村民達が2交代制で作業する事になった。 昭和8年より工事が着工されたが、10年後の昭和18年にようやく324m掘り進めただけだった。 真冬の厳しい中の作業に加え、使える作業具がツルハシのみ。 工事は予定より大幅に遅れていた。 昭和18年、戦争の激化により工事は一時中断となる。 その後、戦争に狩り出されていた男達が帰ってきたのか昭和22年の工事再開。 この再開時には県の助成金も取り付け、作業も昼夜3交代制に変更。 工事が遅れた分を取り戻さんが如く作業は猛スピードで進み、 ついに昭和24年5月1日、中山隧道は貫通した。 | |
開通直後の写真。 みんな晴れやかな顔している。(この画像だと分かりにくいが) 隧道貫通に村全体が大喜びし、現在より更に狭かった貫通当時の隧道を子供も年よりも何度も往復したそうだ。 これは自分達の隧道である。 まさに山古志の人々の誇りであった。 | |
今、山古志の村は危機に瀕している。 前述の通り2004年に新潟県中越地震が発生。 山古志村は最悪の被災地の一つであった。 今でも山古志へ向かう道の殆どが不通。 村のシンボルである棚田や、特産品である錦鯉の養鯉場も壊滅寸前となった。 天災による混乱の中、平成の大合併の荒波の飲まれ長岡市の一部となってしまう。 しかし、山古志の村は滅びた訳ではない。 少しづつではあるが復興は確実に進みつつある。 大地震に見舞われながら中山隧道はその姿を留めていた。 (ただ、魚沼側坑口付近は以前の姿と大分変化しており、落盤・崩落があったのかもしれない) 不屈の闘志で隧道を掘りぬいた村の人々である。 この地震による試練もきっと乗り越えていくであろう。 |
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