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関西の鉄道今昔 【阪和線編】

奥野利夫氏が昭和30年代に撮影されたお写真を元に、
管理人の中学時代からの友人であるE氏に撮影・執筆協力をいただき、
鉄道今昔集をまとめてみました。



奥野利夫氏 昭和33年撮影 阪和線 浅香
E氏 平成20年撮影 阪和線 浅香

長い鉄橋を「快速」のヘッドマークを付けた70系電車が通過していきます。
この駅は阪和線の浅香駅(大阪府堺市)、時は昭和33年であります。
鉄橋が架かる大河は大和川で、対岸からは大阪市になります。

線路の右側に見える大きな建物は大阪市立大学です。
敗戦により進駐軍に接収されていましたが、全面返還がやっと完了しました。

アメリカに追いつき追い越せとばかりに、この年に151系特急「こだま」が華々しくデビュー!
阪和電鉄が戦前から守っていた狭軌の最高速度のタイトルを奪取し、
「特急」が再び「夢の乗り物」となりました。
阪和線は、ライバルの南海電鉄が、
流行の湘南スタイルでカルダン駆動を備えた11001系を「特急」に導入していたので、
大きく差をつけてられていました。

ここで声がかかったのが同じ湘南の顔の70系で、
まず半鋼製を投入し続けて昭和32年には新型の全金製300番台が投入されます。
茶坊主と言われた京阪神線用の茶色一色に対して、
クリームと緑で明るく塗り分けられた車体は、南海に見劣りしなかったことと思います。 

奥野氏の写真は、「こだま」の登場によって阪和電鉄以来の「特急」が「快速」に
「急行」が「直行」に名称変更になった直後の姿です。


浅香駅の「今」の写真は2009年8月の撮影です。
大和川に張り出した気持ちの良いホームです。
鉄橋を越えてやって来ますのはクハ103616であります。

阪和線「特急」は1972年に「新快速」として、
灰色に青い帯を施した113系に引き継がれます。

1978年に運行を取り止めましたが、この塗装の車輌は今でも阪和線を走っています。
また、1984年にホームライナーが運行され、
現在も「はんわライナー」として381系がクリームに赤色の帯の国鉄特急色で走り続けています。







奥野利夫氏 昭和33年撮影 阪和線 浅香
E氏 平成20年撮影 阪和線 浅香

同じ日の阪和線浅香駅です。
1番線下り側に風変わりな電車が停車して、
車掌がお客さんの乗降を見守っています。

巾広のパンタグラフ、大型のやや腰高の車体にd3D3D3D3の窓配置、
連結面の雨樋が側面にあります。
151系の登場まで日本最速のタイトルを持っていた、
阪和電鉄譲りのモヨ100+モヨ100+クヨ500であります。

手前の車輌はモハ22003と読めますが、
この年に新番号に変更されクモハ20 50番台となります。
昭和5年に、全鋼性の車体に転換クロスシートの豪華設備で登場し、
「超特急」として、「特急黒潮」としては重連!でオハ32、スハ31を3〜4輌も引いて、
評定速度85km/hで走ったものです。
戦後は「特急」の座をモハ52、続いて70系に譲りましたがまだまだ健在です。

戦前の同時期に関西で韋駄天を競った新京阪(阪急)P—6、参急(近鉄)2200系は、
最後まで、ほぼ原型を保っていましたが、
国鉄化により阪和電鉄の車輌は形態を大きく変えてしまいます。
奥野氏の写真の車輌も、片運転台化、パンタの1基撤去、
ベンチレーター変更、3扉化(転換クロスシートは戦前にロングシートに変更)が行われています。



今の写真は、2009年8月の撮影です。
車輌はクハ103193です。
浅香駅は台地の端に立つ高架駅で、ホームは線路下の通路で繋がっています。
この薄暗い通路を通った時、阪和電鉄時代の匂いを感じた様な気持ちになります。


今回の社型、前回の70系はともに美しい整った編成です。
戦後の阪和線は旧型国電博物館と言われて、
転属して来る旧型国電の形式が多すぎるばかりでなく、
色もオレンジ色に塗り替えられず茶色のまま運用されている車輌もありました。

これらがごちゃまぜに編成され、戦前型と72系だけでなく、
スカ色70系とオレンジの72系など考えられない編成が常態化していました。

最近でも、湘南色・阪和色・瀬戸内色・福知山色の113系が、
2008年頃まで塗り替えられず運用されており、
自由に組み合わせたカラフルな編成で走る姿は、これぞ阪和線の伝統だと思っていました。
しかし、奥野氏の写真から、それは間違いだと教えられました。









奥野利夫氏 昭和35年撮影 阪和線 鳳
E氏 平成20年撮影 阪和線 鳳

昭和35年の初夏でしょうか。場所は鳳駅。
提灯型の表示燈が取り付けられた3番線ホームは、
元気良く白いシャツを捲り上げた人で一杯です。
電車が入って来るのが見えますが、白線を気にしている様子は全くありません。

そして、2番線では今まさに準急「きのくに」が出発したところです。

キハ55系5連の「きのくに」は準急色をまとっているようです。
かもめと白波と紀州の海をデザインした愛称マークが取り付けられ、興味をそそります

ホームのベンチには、赤ちゃんを抱いたおかあさんを中心にした家族連れが列車を待っています。
その向こうの1番線で待機する電車はクモハ20024と読めます。
これも阪和電鉄のモタ300(サイドシートの3扉車)でありました。


今の写真は2009年7月に奥野氏より上り側で撮影しました。
お母さんに手を引かれた子供に見送られて
1番線を発車しようとしているのは、
205系の国鉄タイプです。
JR東では大所帯ですが、JR西では阪和線だけに配属されています。

3番線には103系が到着し、相変わらずホームは賑わっています。
「きのくに」で始まった紀勢本線へのDC優等列車は「南紀」「紀州」などを加え、
キハ81形の特急「くろしお」まで発展します。
さらに、電化により381系特急「くろしお」と、
JR西の283系特急「オーシャンアロー」に引き継がれています。
JR化後は白と緑色の塗り分けになっていますが、
パノラマシートが取り付けられて、夢のある列車にしているのがうれしいところです。




奥野利夫氏 昭和35年撮影 阪和線 鳳
E氏 平成20年撮影 阪和線 鳳

先ほどの写真のキハ55の向こうに、
小さく70系が写っているところが鳳の電車区でありますが、
丁度昼休みが終わったのでしょうか。
鳳駅の詰め所から工具を持った職員が思い思いに出てきました。
列車が間近を通過しているのに職員一同はなごやかな雰囲気です。

ノーデッキでカーブのある溶接車体のちょっとしゃれた電機は、
ED38のトップナンバーです。

巾広のパンタグラフから解ります様に阪和電鉄の車輌で、
戦前に最も美しい私鉄の電機のひとつと言われたロコ1000形であります。

戦後に関西本線の竜華操車場と阪和線の杉本町を結ぶ、
通称「阪和貨物線」が開通したこともあり、
貨車が停車したりして活気が感じられます。

ED38は、国鉄の電機が次々に投入されても、
阪和線に適した機能で重用されていました。
しかし、新型のED60が昭和34年に投入されて古巣を退くことになりました。
トップナンバーは秩父鉄道に、2号機は大井川鉄道にと引き取られていきます。


今は2009年8月の撮影で、
車輌は223系2500番台の「関空・紀州路快速」です。

線路際の道は無くなってしまい、少し遠くからの撮影です。
鳳駅は橋上駅になり周囲にビルが建て込んでいますが、
ここからの印象は昔とあまり変わっていません。

ED38が退いた後も、
EF58とED60が重連で貨物を引く珍しい運用が行われていました。
ところが、あまりに日常的だったので、
付近に住んでいる人にはEF58は貨物機だと思えるほどでした。

今では、阪和線は貨物の取り扱いを止めてしまい、
阪和貨物線も2009年に廃止が決定しました。
貨物列車は来ませんが、
関西空港が出来たので空港連絡線としての役割を持つようになりました。

223系は関西空港の開港の時に、
0番台として「関空快速」用として初めて阪和線に投入されました。
その後、2500番台が登場し、
最初に投入されたグループは0番台と混結されて用いられています。

この写真でも3輌目が0番台です。
阪和線はずっと南海電鉄に差を開けられっぱなしでしたが、
関空・紀州路快速が大阪から直通で走るようになってからは、
「やっぱり阪和線はあかんなあ」とは聞かなくなりました。





奥野利夫氏 昭和35年撮影 阪和線 鳳
E氏 平成20年撮影 阪和線 鳳

ここは、鳳駅の南側の鳳電車区との間の踏切です。
奥野氏は阪和線に来ると必ず鳳電車区に足を運んでいます。
当時の泉州地方
(大阪府堺以南)で撮影された写真を見ますと広大な田園地帯が広がっており、
駅の傍で撮影されたこの写真ですら同様です。
しかし、電車区の入り口と言う事で、
人影も無い一本道に線路の数も多く遮断機もある立派な踏切が不釣合いです。
運悪く止められてしまったおっさんが不機嫌そうに電車をにらんでいます。

 先頭の車輌はモハ2237(クモハ20 0番台、 モタ300)です。
後ろは後追いの写真がありクハ6214(クハ25 20番台 、クタ600)ある事が確認できています。
モハ2237はパンタが国鉄型(PS16)に交換されていますが、
ベンチレーターは交換されておらず接続面側の元運転室扉も残されています。
クハ6214は南海買収時代に南海が設計した半鋼性車ですので、
モハ2237と編成を組んで形が合わないのは
,そのためかと思います。
これも3扉化、ベンチレーターが変更されています。
運転室扉が両方取り付けられていますが、
運転台はなぜか最初から片方だけでした。

 


今の写真は2009年8月の撮影です。
周囲は過密な住宅地になっています。
しかし、未だに有人踏み切りで、
踏み切り番が旗を振って安全確認の合図をする姿が見られます。

通過するのはJRになって設計・製造された、阪和線専用の205系1000番台です。

阪和線の社型は昭和30年ごろの資料を見ますと、
国鉄形21輌に対して社形68輌と圧倒していました。
これは、国鉄のお家事情もあったと思いますが、
阪和電鉄の車両が、国鉄型より大型で、性能がよかったことに事に他なりません。
昭和35年の大鉄への101系の導入の時に、
大鉄色として明るい色をとの事で、阪和線の社型も茶色からオレンジ色に塗り替えられました。

その後も旧型国電博物館の一員として活躍していましたが、
昭和43年に阪和線に103系が投入された事により、
全て現役の道を退くことになりました。

新型の103系が、水色に塗られて整った編成で走る姿は新鮮で、
沿線の人々に新しく生まれ変わった印象を与えました。
快速にも使用され40年以上主力として活躍してきましたが、
2009年
3月のダイヤ改正で快速の運用から外れる事になりました。
しかし今では阪和線と言えば、誰でも水色の電車を思い出すのではないでしょうか。






解説文執筆 E氏
調査協力  住吉人氏


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