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関西の鉄道今昔 【阪急編】【神戸市電編】

奥野利夫氏が昭和30年代に撮影されたお写真を元に、
管理人の中学時代からの友人であるE氏に撮影協力をいただき、
鉄道今昔集をまとめてみました。



奥野利夫氏 昭和39年撮影 阪急線 中津
E氏 平成21年撮影 阪急線 中津

昭和30〜50年ごろまでの中津は鉄道ファンのパラダイスです。
鉄道車両のタイプがほとんど見られると言っても過言ではありません。
メインイベンターは何と言っても阪急の3複線でしょう。
神戸・京都・宝塚・千里山線の車輌が見放題のリングサイド席です。

名脇役は小柄な阪神北大阪線の路面電車です。
天神橋筋6丁目と阪神野田間を連絡していましたが、
中津高架橋を渡る時に阪急のすぐ横の停留所に停車します。

北大阪線とタッグを組む選手は大阪市交通局のトロリーバスです。
こちらは、大阪駅前から中津高架橋と十三大橋を、
仲良く阪急と渡って神埼橋まで行きます。

これだけで驚いてはいけません。
阪急のライバルもいるのです。
阪急と国道が中津に高架橋を設けているのは、
梅田貨物駅があるからです。

なんと高架橋からは、蒸気機関車がたむろする貨物駅が一望できるのです。
こんな所には弁当持参で行かなくてなりません。
でも弁当を忘れても大丈夫、ガード下に飲食店があります。

その証拠に住人が国道と鉄道の間に洗濯物を干しています。
きっと、夜は力道山のプロレス中継で盛り上がるのでしょう。
(力道山が亡くなったのは、次の年の事です)

奥野氏が、宝塚線の下りホームから出発する600形を撮影しようとしています。
すると、600形に代わって、
急行用として配属されたばかりの2100系が入って来ました。
新旧の交換だ!と思うまもなく京都線の上り線にも急行のマークを付けた100形がやってきました。
すばやく、新旧の主役が顔を揃えた
3並びが撮影できました。
レトロな風景の中で戦前の車輌に囲まれた2100系は、
タイムトンネルを抜けて未来からやって来た様に斬新です。



今の写真は、2009年12月の撮影です。
鉄道の高架橋の幅が広げられており、洗濯物を干すスペースは無くなってしまいました。
もっともガード下は寂れてしまって、時が止まった様な異次元ゾーンとなっています。

車輌は京都線の特急用として活躍した6300系です。
奥野氏の写真の2100系は、
第1回ローレル賞を受賞した「人工頭脳電車」2000系・2300系の宝塚線仕様でした。
低出力型という、今では先見の明が無かったと思える様な形式です。
しかし、回生ブレーキ用を含む2本パンタ、
屋根全体に長く乗った通風装置など2000系シリーズの特徴を見せてくれています。

100形の元気さにはびっくりします。
1971年ごろまで急行として運用されおり、
44年間優等列車として活躍したことになります。

6300系は、京阪の「テレビカー」3000系、
国鉄の「新快速」153系との競争に勝つため、豪華設備を持って登場しました。

田舎者の私は、大阪へ出て来た時に、
自動で転換されるクロスシートを見てびっくりしたのを今でも覚えています。
この名特急も、35年の活躍をもって2010年の1月に京都線の運用から外れ、
嵐山線で観光客のお相手に専念する事になりました。
しかし、特徴であったマルーンとグレーの塗り分けは今でも引き継がれています。








奥野利夫氏 昭和34年撮影 阪急線 中津
E氏 平成21年撮影 阪急線 中津

昭和34年2月18日に、
昭和32年に阪急50周年事業として始められた、
梅田〜十三間の3複線化がいよいよ開通されます。
これから、この国道176号線沿いから、
神戸線・宝塚線の向こうに京都線が平行して走ることになります。
既に、真新しいバラストが敷かれた線路が設置され、
開通を今か今かと待っています。
3つの線に電車が顔を並べて走るかと思うと夢の様です。

折から、宝塚に向けて電車が通過して行きました。
戦前型の15mの4輌編成です。
最後尾は380形です。
非力なので、地上駅から直ぐに高架になる梅田では登るのに苦労しました。
でも、ボールドウィン型の台車やドアステップが付いてちょっとかっこいいでしょう。
増結の仕事になってからは、前の3輌編成に引っ張ってもらってラクチンです。

この3両編成は、真ん中が3扉でおわん型ベンチレーターなので、
基本編成として使われていた500形+300形+500形でしょうか。



今の写真は2009年9月の撮影です。
奥野氏が撮影された国道176号線の歩道からの撮影です。
しかし、ホームが延長されているので、十三側に移動して金網の隙間からの撮影しました。
奥野氏の写真では阪急の高架橋には米形の装飾が施されていておしゃれですが、
今でも一部が残っており往年の姿を垣間見る事ができます。

能勢電鉄直行の宝塚線の通勤特急「日生エキスプレス」が8000系でやってきました。
能勢は大阪の秘境と言われましたが、
現在は大阪に通勤する人が沢山住む様になりました。

380形は宝塚線に新型の2100系が投入された事で支線に転出されます。
最後に増客が見込まれる能勢電鉄へ譲渡されますが、
もはや活躍の場は無く廃車されてしまいました。











奥野利夫氏 昭和34年撮影 阪急線 三宮
E氏 平成20年撮影 阪急線 三宮

西洋のお城の様な駅ビルから出発するのは、阪急1010系です。
阪神電鉄の芦屋駅などで撮影した帰りに国鉄三宮駅から、
阪急神戸駅を撮影したものです。
1010系は特急用として活躍した車輌で、
ベンチレーターが無い代わりに屋根が2重構造になっており、
その側面に通風口があります。

私見ですが新幹線に似ており、8年前に先取りデザインは新鮮です。
この写真を撮影した時に阪急神戸駅は終点駅でした。
前の年に高速神戸鉄道が会社として発足し、
阪神・阪急・山陽電鉄、神戸電鉄を地下でつなげる計画がスタートしています。
この高架下のゲートでは市電がいつもの様にお客を乗せて走っていました。



今の写真は、2009年11月、休日の7時ごろの撮影です。
ホームの真ん中で撮影されているので、
普通の時刻ではあまりの混雑で撮影できませんでした。
阪急の神戸駅は1968年の神戸高速鉄道の開通に合わせて三宮駅と改称されています。

お城の様な駅ビルは阪急会館と言われデートの待ち合わせに使われたりして、
神戸市民に親しまれていました。
しかし、1995年の大震災で倒壊は免れたものの、
鉄道の復旧前に取り壊され、仮の駅ビルの今に至っています。

神戸高速鉄道の開通により、櫛形ホームから島式ホームになり、
阪急の電車は義経ゆかり鵯越の須磨浦公園まで乗り入れていました。
私は須磨に住んでいた事があり、阪急電車が海からの陽光を浴びて走る姿を見ることが出来ました。

ところが、あまりメリットが無かった様で、
現在では地下駅化して神戸地下鉄への乗り入れを検討しているようです。
そうなると、仮駅ビルも立派に立て直されるのでしょうが、
この風景は過去のものとなってしまいます。

奥野氏の写真の1010系は特急用として活躍していました。
ベンチレーターが無く、屋根が2重構造になっており側面に通風口があります。

私見ですが新幹線に似ており、8年前に先取りデザインは新鮮です。
今の写真は通勤型の7000系です。屋根が6300系の様に塗り分けられていますが、
マルーン一色の姿の方が馴染み深いです。

7000系が登場する2年前の1978年まで、
1010系は神戸線で活躍し、神戸高速鉄道にも乗り入れています。
支線にしばらく転用された後、能勢電鉄でがんばっていましたが、
21世紀を前にした2000年に廃車されました。
神戸市電の廃止が始まったのは神戸高速鉄道開通の2週間後のことです。







奥野利夫氏 昭和32年撮影 神戸市電 神戸駅東ガード付近
E氏 平成20年撮影 神戸駅東ガード付近

10系統のマークをつけた脇浜行きの600形が、裁判所前の停留所に到着します。
写真の右端に停留所の標識が見えます。
市電が潜り抜けようとしているガードは東海道本線でありますが、200mほど右側が終点の神戸駅です。

ガードには「危ない注意徐行」と書かれていますが、信号を探してもどこにも見えません。
交差点でいちいち徐行させられる市電は、さぞ走りにくかった事だろうと思います。

その向こうにただ一つ高くそびえるビルディングは、三越百貨店であります。
神戸駅周辺が神戸一の繁華街であった事が、一目で解る豪華さであります。

戦前まで神戸市役所は、左側に見える病院の角を入った所の裁判所の隣にありました。
戦後は北東にある湊川公園の北側が市役所でした。
しかし、阪神・阪急の駅があって交通が便利な三宮に街の中心が移り、
この写真を撮影した前年に今の位置の三宮に市役所は移転しています。

さて、600形は単車だった300形のボギー車のタイプです。
台車の軸箱の高さを良く見てください。
一方が高くなっているのが解りますでしょうか。
市電では初のボギー車で昭和7年に鋼体化されたという歴史のある車輌だけあって、
木造時代のマキシマム台車を履き続けていました。
車体も木造時代を彷彿とさせる直線的なデザインですが、窓が大きく古さを感じさせません。




今の写真は2009年11月に撮影しました。
JRのガードを特急「スーパーはくと」が三ノ宮に向かって通過していきますが、
残念ながら神戸には停車していません。
三越百貨店は閉店し殺風景なビルばかり目立つようになってしまいました。

10系統は阪神の国道線の終点だった三ノ宮駅の東にある脇浜を始点にして、
神戸駅の北西にある有馬街道沿いの平野を結ぶ運用でした。
途中で三ノ宮駅、現在でも人気のそごう百貨店と大丸百貨店を経由、
神戸のウォール街と言われた栄町通を西に進んで、
突き当たった所が昔の神戸港付近で、
ここを北上すると三越百貨店横の元町6丁目でした。

国鉄のガードを抜けて裁判所前と楠公前を通過して、平野まで結んでいました。
今は、ガードの向こうから撮影ポイントまでの地下を神戸高速鉄道(阪神)が走っています。

さらに、JRの線路の手前左側からの地下を神戸高速鉄道(阪急)が走り込んでおり、
撮影地点で合流して新開地まで行き、神戸電鉄・山陽電鉄と連絡しています。

10系統の路線の周辺で起こった出来事を見ていくと、
開業当時の中心地の神戸駅と大阪から便利な三宮を結ぶ役割を果たしていたのが、
街の賑わいが三宮に移る事で役割も減り、
神戸高速鉄道の開業によりその使命を果たし終えた事が良くわかります。

東洋一と言われた市電の昭和46年廃止という早い幕切れは、
ニーズが高かったゆえに近代化の波も早かったためかもしれません。
しかしながら、600形は路線の廃止の始まった昭和44年まで立派に活躍しました。
神戸市電の歴史と共にあった車輌でした。







奥野利夫氏 昭和32年撮影 神戸市電 楠公前
E氏 平成20年撮影 楠公前

13系統の750形がカーブを曲がり楠公前の停留所に到着です。
裁判所前の撮影地点とほぼ同じところから反対向きでの撮影です。
交差点の角には、本屋・パーマ屋などの店が懐かしいたたずまいを見せて並んでいます。

左側に見える長い塀は「楠公さん」として神戸市民に親しまれている湊川神社です。
塀に沿って丘を登る線路は楠公東門線です。

さて、
この神社は湊川の戦いで敗れ、
自刃した南北朝時代の英雄「楠正成」を祀っていますが、
正成は九州から東上する足利軍を、
停留所で
3つ西の新開地に流れていた湊川を渡って迎え撃ちます。
文字通り背水の陣で戦ったわけですが、
三ノ宮駅付近の海岸から足利の水軍が上陸したため背腹に敵を受け敗れました。

江戸時代になってから、正成に感銘を受けた徳川光圀は、
「嗚呼忠臣楠子の墓」と揮毫して墓碑の建立を発起し、
助さんのモデルになった佐々氏が、
古戦場と海を望むこの地を選んで建立したと伝えられています。

13系統は10系統と同様に脇浜を始点にして三宮を通り、
楠公前からPの字型に循環する運用です。
楠公前から新開地で湊川跡地に沿って北側に折れ、
湊川公園から西に進み長田、和田岬、神戸駅前をぐるっと回って楠公前に戻る、
古戦場めぐりの様な路線でした。

750形は戦後生まれの車輌で、
神戸市電らしい大きな側面窓が、前面にゆるやかにカーブを描いてつながる美しい車輌です。
このタイプの後期に作られたものは、
戦前のロマンスカー700形の復活として転換クロスシートで製造されました。
外観も良く似ていますが、戦後っ子750形の方が少し垢抜けているでしょうか。



▲今は2009年11月の撮影です。
楠公東門線があった道路の銀杏並木が美しく紅葉しています。
市電が走っていた頃は、この落葉で車輪がすべって坂を登るのに苦労したという話が残っています。

神社の前の多門通りは市電の複線プラス2車線から6車線に拡張されたので、
交差点の風景は神社の塀が無いと見当が付かないほど変わってしまいました。

私は昭和50年代に広島に住んでいましたので、
神戸市電を毎日見て生活する幸運な機会を得ていました。
緑色の濃淡の塗り分けと銀色に塗られた屋根の塗装は品が良く、
車体も大型で乗客の評判も良かった様に覚えています。
750形は市電の廃止の一年前に廃車となりましたが、
神戸市営地下鉄の名谷車輌基地に保存されている700形に、
750形のロマンスシートが取り付けられて、
東洋一の姿を私たちに残してくれています。




奥野利夫氏 昭和34年撮影 神戸市民病院前
E氏 平成20年撮影 現新神戸駅前
布引線の「中央市民病院前停留所」付近を9系統の市電が過ぎ去って行きます。
車輌は570形、ボギー台車を履いた13mの大型車です。
屋根に日の丸を立てお正月を祝いながらの走行です。

布引線は六甲山が間近に迫った新幹線の新神戸駅付近を中心に、
加納町3丁目から上筒井一丁目までの短い路線です。
この付近は、平安時代から歌に詠まれた名勝「布引の滝」があり、
六甲山の緑も豊かな美しい所です。

9系統は兵庫駅の南東の東池尻2丁目から北上して長田で東に向かい、
湊川公園と異国情緒のある教会などが立つ中山手通りを通って、
中央市民病院前を通過し、阪急の王子公園付近でガードをくぐり将軍前に至る運用です。

実は、市民病院も9系統に乗って、長田から環境も良いこの六甲山麓に移転して来たのです。
緑に囲まれた白い病院として市民に親しまれていましたが、本日はお正月なので大変静かです。
さて、570形はどうでしょう。前年から始まったワンマン化改造が実施されていない3扉の姿で、
中央扉の両側のおしゃれな楕円窓と木製の扉が、良くマッチしています。
この窓から中山手通りの教会の塔を覗けば、さぞエキゾチックな眺めだった事でしょう。



今の写真は、2009年11月の撮影です。
市民病院は昭和56年のポートアイランドの開島と同時に移転して、
その跡地に新神戸オリエンタルホテル(現クラウンホテル)が教会の塔の様に高く聳え立っています。

奥野氏が撮影した前年の暮れにダイエーが三宮店を開店しています。
この年に牛肉を市価の半額で販売し大好評を得て、2年後には日本最大のスーパーになりました。
市電の走る道路も歩道の工事中で、高度成長の波が岸辺まで打ち寄せてきています。

ダイエーが三越を抜いて日本一の小売店となった昭和47年は、
山陽新幹線の開通と共に新神戸駅の開業がありました。
しかし、市電は時代の波に乗れず昭和46年に廃止されてしまいました。
わずか12年後の事です。
新神戸は神戸の玄関口であり、
それにふさわしいものをとダイエーの社長の中内功氏が中心となって発案されたのが、
新神戸オリエンタルホテルを中心とした新神戸オリエンタルシティーです。
昭和63年に開業し神戸の新名所となりました。

その後は皆さんご存知の通りです。
バブル崩壊後の経営戦略を見直せなかった中内氏はダイエーの経営から退き、
失意の内に亡くなりました。
中内氏は新神戸オリエンタルシティー建設に際して、
北野異人館の入り口である当地の通称を北野1丁目(実際は加納町1丁目)とすることを提案したそうです。
これは、ここから出発する定番のデートスポットである布引ハーブ園のロープウェイの駅名として、
彼の神戸への思いと共に引き継がれています。

市電が廃止になった後、570形は広島電鉄に譲渡され、
写真の576は1990年まで元気に活躍しました。
同形の1輌が、まだ現役で広島の街を走っています。
神戸ではもうその姿を見る事は出来ませんが、
楕円の窓から眺めたらホテルやハーブ園もきっと素敵なものだろうと思います。



解説文執筆 E氏

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