このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください



関西の鉄道今昔 【阪堺電車編】

奥野利夫氏が昭和30年代に撮影されたお写真を元に、
管理人の中学時代からの友人であるE氏に撮影協力をいただき、
鉄道今昔集をまとめてみました。



奥野利夫氏 昭和35年撮影 阪堺電車 天王寺
E氏 平成21年撮影 阪堺電車 天王寺

南海上町線の天王寺駅前駅に入るために、
平野線のモ101形がポイントの前でモ301形の出発を待っています。

写真では少し遠いですが駅前の交差点は大勢の人で溢れかえっています。
まだこの頃はこの交差点を大阪市電が横切っていました。
昭和26年には軌道線全体で一日26万人の乗客数があり、
この駅も南海では難波駅に次ぐ乗降客数を誇っていました。

この年に大阪市営地下鉄御堂筋線が天王寺〜昭和町で開通して以来、
乗客数が減少していますが、まだまだお客さんをたくさん運んでいるようです。

国鉄の天王寺駅はまだ木造2階建てでしたが、
右に見える近鉄阿部野橋駅が入る近鉄百貨店は3年前改築増床され、
外装も美しく直されました。

夏の良く晴れた昼下がり、アイスキャンデーやビアガーデンの看板が見える百貨店横の歩道には、
家族連れやアベックが楽しそうに歩いていきます。
そして1950年型のフォードマーキュリー クーペが、
アメリカらしい跳ね上がった尻尾を見せて駐車中です。

モ101形もアメリカンタイプの14m大型車で迫力があります。
ダブルルーフの明り取りに飾りランプの様な水雷形ベンチレーターが並んでおり、
木造なので馬車の様です。

集電装置が変わっています。ポールを改造したYゲルが取り付けています。
遠州森町を走っていた静岡鉄道秋葉線の同時期の写真でも、
同じ集電装置が見られます。
今まで軽便専用かと思っていました。


今の写真は2009年9月の撮影です。
501形とモ351形が50年前と同じ様に天王寺駅前駅の前で交換しています。
天王寺駅前駅は屋根が取り付けられ、
停留所の向こうの交差点には歩道橋が架けられ、通しが効かなくなってしまいました。

しかし、近鉄百貨店隣の三菱銀行のビルは同じ姿を見せてくれています。
他の場所は大きく変わっているのですが、ここだけは時間が止まっているようです。
ところが、近鉄百貨店にも遂に足場が組まれてしまい、
関西一の高層百貨店に向けて建て直しの工事が始まっています。

平野線は、同じ道路の下を通る地下鉄谷町線が、
平野まで昭和55年に年開通したのと同時に廃止になりました。
その2日後の昭和55年12月1日に南海の大阪軌道線は阪堺電気軌道に譲渡されました。









奥野利夫氏 昭和35年撮影 阪堺電車 天王寺
E氏 平成21年撮影 阪堺電車 天王寺

▲天王寺駅前を発車した浜寺駅前行きモ501形があべの筋を下って行きます。
夏で暑いのでしょうか。前面の両脇の細い窓を目一杯解放しています。
浜寺駅前行きの運用は2009年に36年ぶりに復活していますが、中断前の姿であります。

いかにも軽快な、クリーム色と薄い緑色で塗り分けられていました。
この塗り分けも、写真のモ505で同時に復活し、昭和30年代風のさわやかな姿を見ることができます。

モ501形は大阪市電タイプのデザインで、奥野氏が撮影した3年前にデビューした新型です。
国鉄では同じ年に90系がデビューし、2年後に101系と改称されたところです。
同い年だけあってモ501形もカルダン駆動を備えた新性能電車です。
良く見ると密着式連結器を装備しています。
この年の6月まで平野線で重連運転をしていた名残りであります。

旅館千鶴の前にタクシーが止まりお客を降ろしています。
その前に駐車している観音開きのドアの車は初代クラウンでしょうか。
世界一となってアメリカに叩かれているトヨタも、
当時はアメ車を真似したデザインでありました。
人通りで賑わう商店街は、旅館に続いて食堂・洋服店・すし屋・証券会社・理客店などが軒を連ねています。
食堂の看板には割烹・洋食・喫茶と書かれており、遊園地のレストハウスの様です。


今の写真は2009年9月です。
代わってあべの筋を下って行くのは住吉公園行きのモ351形です。
モ351形はモ501形の後輩ですが、見分けが付きません。
先の今昔で紹介したモ101形が廃車になった時のモーターを流用した釣り掛け駆動車です。

あべの筋は人通りが少なくなりましたが、相変わらずこちゃごちゃしています。
しかし、以前の個性溢れる店は少なくなりチェーン店が目立つようになりました。
赤い銀行の看板も前に軌道敷通行禁止の標識が見えます。

私は自動車で天王寺方面に出かける時は、あべの筋を良く利用します。
舗装の角が欠けた併用軌道が見える区間に入り、
車の列の向こうから市内電車が来るのが見えると、昭和30年代に戻った様な気になります。

マナーに無頓着なドライバーも、ここでは無理をせず譲り合って運転している様です。
長く残して欲しい併用軌道区間です。
ところが、阪堺電軌の乗客数は2008年に一日2万人となり、減少に歯止めがかかっていません。











奥野利夫氏 昭和39年撮影 阪堺電車 住吉大社前
管理人 平成20年撮影 阪堺電車 住吉大社前

▲ディンディンとフートゴングを鳴らして、
上町線から出てきたモ161形が住吉交差点を渡って行きます。
終点の住吉公園駅まで150mです。
交差点の向こうの上町線住吉駅で降りた乗客が踏み切りを渡って、
阪堺線住吉駅に乗り換えています。

折りよく、下りの阪堺線の電車がやってきました。
これもモ161形です。下り側の道路はかなり渋滞し、軌道内に入る自動車も見えます。
上り車線ではあわてて道路の拡張工事中です。

モ161形は昭和3年に川崎・近畿車輛で製造された3扉の大型車です。
平野線で活躍していたので両方とも密着式連結器を付けています。

奥野氏の撮影された他の写真を拝見していますと、
自社で46輌も製造した2扉車のモ205形も良く似た外観に作られているので、
このデザインが当時の阪堺電車のスタイルの様に感じられます。

また、モ101形も含めて、どの車輌も車体は濃い緑に窓枠とドアはニスで塗り分けられています。
これは、当時の南海大阪軌道線(前年に和歌山市内電車を合併しています)の色だと思っていましたが、
当時の南海線で特急として運用された2001形も同じ色で塗られた写真があり、
南海の伝統の塗装で統一されていたと考えなおしています。




▲今の写真は2008年の2月です。
同じモ161形が、ホームに屋根が取り付けられた上町線住吉駅を出発し、
住吉公園駅に向かいます。

方向幕が付けられワンマン化はされていますが、クーラーは取り付けられていません。
残念ながらバンパーの上のカエルの目玉の様な反射板は撤去されてしまいました。

平野線が廃止され、今では唯一のクロスポイントとなった住吉交差点には、
今でもガレージの横にある詰め所に職員が駐在しています。

阪堺線の道路沿いは、昔ながらの酒屋や電気屋が姿を消し、
高いマンションが立ち並んで風景は一変してしまいました。
奥野氏の撮影した上町線のモ171形は廃車され、
阪堺線を走っていたモ173もモ301形に改造されたのち、
廃車されて現存していません(モ171は近畿車両に里帰りしています)。
しかし、駅の後ろの病院は昔と全く同じ姿で、今も変わらない線路と架線柱・・・・そして電車を見つめています。






奥野利夫氏 昭和39年撮影 阪堺電車 住吉大社前
E氏 平成22年撮影 阪堺電車 住吉大社前

ある冬の日、住吉大社の玄関の住吉鳥居前駅での撮影です。
直ぐ横を平行して走る南海線の住吉大社駅から猥雑な路地をちょこっと歩くと、
住吉大社の参道とその奥に鳥居が見えてきます。

参道の両側に灯篭がならぶ神社前の道は紀州街道で、
このあたりは下町の町並が続いています。
この道を、通天閣をバックにした恵比須町駅から出発した、
浜寺公園駅前行きのモ301形がゴトゴト走って来て停車しました。

ホームでは着膨れした男の子が、期待で体をはち切れそうにして待っています。
同じホームで学生帽と詰襟をきちんと着た男子学生や、
おかっぱ頭の女子高生が見えます。
すれ違おうとしているダットサン ブルーバードを、
ちゃんちゃんこ姿のおかあさんが軌道上でのんびりと通過待ちしています。
重そうに持っているのは買い物籠でしょうか。

▲今の写真は2010年3月です。
住吉鳥居前の風景は大きく変わっていません。
住吉大社の大きな燈篭はそのままです。
神社の前は近代的なビル街にはなっておらず、相変わらずごちゃごちゃしています。

これも相変わらずのホームに昔ながらのモ161形がやってきました。
1928年製造の当形式は、豊橋鉄道モ3700形の引退で、
2008年に現役最古の電車となりました。
まだ10輌が在籍しています。
このモ164は標準色ですが、グリーンに窓枠ニス塗りの旧南海色が復活して、
2輌が走っています。

クーラーが装備されていないので、冬場を中心に運用されていますが、
その分、不格好になっていませんし、薄緑色に塗られた車内からも、
往時を偲ぶことができます。


奥野氏の撮影したモ301形は、モ161形の制御器を改造した形式でしたが、
残念ながら2000年に全て廃車されてしまいました。

今の写真には、立浪部屋ののぼりが写っています。
昭和30年代から春場所の宿舎となっていて、境内にある土俵を使って稽古をしています。
奥野氏の写真の時代は、吊り出しで人気を集めた若浪が入幕したころで、
この交差点を渡って南海電車に乗って場所入りしたり、
モ301形に乗って食事に出かけたりしたんじゃないかなあと思ってしまいました。







奥野利夫氏 昭和30年撮影 阪堺電車 浜寺公園付近
管理人 平成20年撮影 阪堺電車 浜寺公園付近

浜寺駅前駅のすこし北側の風景です。
南海線をオーバークロスして来たモ205形が砂利道の併用軌道で、
モ161形と離合しています。

左側に見える舗装道路は紀州街道で、
その向こうに見える松林が浜寺公園ですが、何故か白い柵で囲まれています。
白砂青松の砂浜を誇り関西有数の高級リゾート地だった浜寺公園は、
奥野氏が撮影された時は、米軍の宿舎用地として接収されていました。

阪和電鉄がわざわざ羽衣支線を設置した、かの海水浴場も米軍のプライベートビーチになっていました。
日本人は北側に隣接する南海線の諏訪ノ森駅近くの海水浴場しか利用できませんでした。
そびえ立つ白い電柱、道路の端を自転車で走る人、
砂利道の向こうに冷たい風景が隔絶されて存在しています。
返還は3年後の昭和33年でした。
米軍基地問題で政治が揺れている昨今ですが、平和の尊さを我々は忘れてはいけないと思います。



今の写真は2008年の2月です。
あたりの風景は奥野氏が撮影した時とあまり変わっていません。
砂利道は舗装され、軌道との間に柵が設けられ専用軌道になっています。
架線柱が道路を飛び越えて立っているのが併用軌道当時の名残りとなっています。

奥野氏の写真を良く見るとオーバークロスの所に駅が見えますが、今の写真にはありません。
いつ廃止されたのかはっきりしない幻の駅である海道畑駅と思われます。

恵比須町駅に向かって出発するのは、雲電車塗装のモ501形です。
このモ505は、今はクリーム色と薄い緑色で塗り分けのオリジナル塗装でさっそうと走っています。
奥野氏の撮影された205型は木造車の部品を流用して製造された2枚扉のタイプです。
阪堺軌道では小型車なため、奥野氏が撮影した当時から予備車的な使われ方になっていました。
その後、平野線用として運用されましたが、平野線の廃止で活躍の場を失って廃車になりました。
地味な存在ではありましたが、カナダの保存鉄道に保存されている日本代表選手であります。

今の写真を撮影した日は南大阪では珍しい積雪があり、あたりは珍しく静かでしっとりとしています。
浜寺公園は府立公園となり、与謝野晶子と鉄幹が愛を語った松林は、
バラ園、プール、球技などのスポーツ施設、子供汽車等が設けられ今も賑わっています。

しかし、日本人は返還3年後に海岸を埋め立て石油コンビナートにしてしまいました。
今では、南海線で特急6つ目の駅である尾崎駅付近まで、
コンクリートの岸壁や人工の砂浜が続きます。
平和の影で二度と戻らない貴重な財産を、私たちは自ら捨ててしまった様に思います。



解説文執筆 E氏


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