このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

お宝その6 新型N形マルス発行の寝台券・指定券
V形と呼ばれる旧型マルスに変わって、国鉄は昭和49年頃から、N形と呼ばれる新型マルスを各駅みどりの窓口に導入しました。
旧型との違いは窓口カウンターでのぞけば一目瞭然でした。旧型の活字棒を入れるスタイルから一新し、操作パネルがパステルカラーのノート風になり、そこに列車の愛称名、駅名がずらりと書かれています。
キップの注文があると係員は、まず列車愛称名にジャックを差し込み、次に乗車駅、下車駅のジャックを差し込んでいくと、希望の列車の指定券が発券されるという仕組みです。
その操作がカウンター越しに見ることができ、これなら自分でもできそうだ、一度やってみたいといつも思うのでした。暇なとき私は最寄り駅にぶらりと立ち寄るのが好きで、みどりの窓口のカウンターにたたずんで、ひけも切らない客に対処する、係員の新型マルスの操作を見物するだけで、30分でも、1時間でも見ていられました。今考えると相当な暇人でした。
後に発券速度が20数秒から8秒ほどに、スピードアップされた
HN形という機械も改良版として登場したようですが、素人の私には、どれがN形でどれがHN形なのか区別は付きませんでした。ちなみにN形とは「NEW」、HN形のHとは「はやい」の略であることは素人でもわかります。
これら、N形、HN形で発券された指定券の最大の特徴は、キップの様式が横広形に変わったことです。横に広がったことで、現代風のスタイルになり、見てくれはよくなりました。
キップ種別(特急券とか、急行指定席券とか)と乗車月日の表記は漢字表記ですが、列車名、乗車駅、下車駅はカタカナ表記で、直感で読みにくい欠点がありました。これは、当時のコンピュータ技術では、愛称名や駅名の漢字を全部記憶させるにはメモリが足りなかったためです。こんなところにも時代を感じさせます。
新型マルスが出て数年で、それまでキップの枠が黒であったものが、ピンク色になった改良用紙で発券されるようになりました。
それでは、新型マルス券を一気に紹介したいと思います。
▲昭和49年8月、博多の親類宅に滞在。滞在中別府に遊びに行きました。その帰路に乗った急行(いなさ)の指定席券です。
本州の急行の指定席料金は300円でしたが、九州内の急行は指定席料金が100円という特例がありました。300円では高いけど100円ならまあ指定席をとっておこうということで購入しました。
割引欄の「D」とは特例料金100円のこと?詳しい方ご教示を。
▲昭和49年の文化の日、ブルドックと呼ばれていたキハ81に乗りたくて、確保した(くろしお)の特急券です。
この(くろしお5号)は名古屋〜天王寺間を紀勢本線経でロングランする名物特急で、本当は全区間乗車したかったのですが、金も暇もなく特定特急券で乗車できる名古屋から多気まで乗車したものです。
当時、キハ81はもう10年選手でしたが、その乗り心地には満足しました。ただ電車特急のように、横引きカーテンではなく、窓一枚分の巻き上げ式のカーテンのため、前に座った人がカーテンをおろしてしまい、車窓が楽しめなかったことに閉口しました。
下車した多気駅は特急停車駅にもかかわらず、駅前に何もないのどかな駅でした。
▲昭和50年、20系特急(ゆうづる)の寝台券です。昭和51年、世間の大ひんしゅくを買う国鉄運賃料金50%値上げ前のため、寝台料金は1300円という安さです。2月の閑散期にもかかわらず、出発二日前では、
寝台券は売り切れ満席!!の盛況で、上段しかとれませんでした。閑古鳥の鳴く今の寝台車では想像もつかないことです。
▲昭和50年秋、北海道を旅したときのものです。まだ青函連絡船が健在で、飛行機に押されながらも、東京と北海道の間を鉄路で往復する人も多かった時代です。
札幌から乗車した
急行(宗谷)も稚内〜函館間を直通していた長距離急行で、昭和30年代の北海道の優等列車はすべて函館中心というダイヤの名残がありました。
(宗谷)は北海道形キハ56系で、乗り込むと床が木の板だったのに驚きました。普通のリノリウム張りの床材だと、冬季に雪の水分で床が滑りやすくなるからだそうです。
▲昭和52年3月の上り急行(あしずり5号)の指定席券です。このころ四国には特急列車の本数が少なく、主力はキハ58系の急行列車でした。四国では急行普通車指定席には、意図的にキハ65が使われていました。
ピッチの広いシート、そしてポイントを通過するときのエアサス台車のゆらゆらという乗り心地はたまらなく好きでした。乗車扉も折り戸式で寝台特急のそれを思い出し気に入っていました。
この日、南国高知とは言え、(あしずり)が、土佐山田を出て四国山地の縦断にかかるころには、外は真っ白な雪になったことを今でも覚えています。
(南風)の特急券です。高知は親類が住んでおり、私も昭和52年から56年にかけて、高知に在住していました。
そのため、、足繁く四国と本州を往復し、今でも大量の四国がらみのキップを保管しています。
新型マルスでは、カタカナ印字による同音駅を区別するため、「ドサンセンのコウチ駅→トサ」 「ヨサンセンのタカマツ駅→ヨサ」 とかっこ書きが入るようになりました。
▲昭和52年よりN,HN形から発券される指定券の用紙が変わりました。
黒枠できちんと囲んであるタイプから、ピンクの横線へのタイプ変更です。今までの堅いムードから,券面がソフトな感じになりました。
新しい用紙で発券してもらった第一号は昭和52年8月の(みずほ)でした。

▲昭和53年1月に乗車した急行(雲仙)の指定席券です。昭和50年3月改正より(雲仙)は(西海)と併結運転となり、昔懐かしい愛称コンビが復活しました。
しかし、車両は旧型客車ではなく、14系座席車によるモノクラスの編成で趣味的なおもしろさはありませんでした。
14系のハザは体がシートから離れてしまうと、リクライニング機能がバタンと戻ってしまうしくみで、体重をシートにかけていないと、リクライニングが働きません。これを簡易リクライニングシートと呼んでいました。
(雲仙)(西海)はいつもすいていて、シートを回転させ、4席占領して仮眠をしました。

▲昭和53年7月に乗車した急行(鷲羽)の指定席券です。指定席といっても153系のクロスシートですから、自由席と何ら変わりはありません。
宇高連絡船の深夜便から接続するため、宇野発時刻が1時40分と中途半端です。しかし、翌朝早く大阪に着くことができ、その日めいっぱい活動できるため、四国からよく利用しました。

▲昭和55年3月に乗車した夜行鈍行(山陰)のB寝台券です。普通列車のため、支払う料金は寝台料金のみで、ただ単に「B寝台券」としか印字されていないところが変わり種です。(山陰)のB寝台車は出雲市よりに一両だけ10系寝台車が連結されていて、あとは旧型客車の普通車でした。普通車内は雑然としていましたが、寝台車内はいつ乗っても静まりかえっていて別天地でした。
▲同じく昭和55年3月に乗車した(さくら)の寝台券です。14系寝台車がまだ三段だった頃で、第一希望下段、第二希望上段を申し込みましたが、春休みのため、
寝台券は売り切れ満席!!
でやむなく中段を買い求めました。
中段は一人旅の場合、下段客に気を遣いながら、上段客の気配を感じながら休まなければならず、おまけに高さも窮屈で一番ストレスがたまりました。中段寝台とは正に高度成長時代の象徴といえるものですね。
 

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