滋賀県内での主な列車事故

滋賀県内の鉄道事故を取り上げて行こうと思います。現在随時拡張中。

 

トンネル内窒息事故

 

昭和3年12月6日午前11時13分 刀根〜雁ヶ谷間 柳ヶ瀬隧道内

貨第556列車 現車40両換算628分 本務機D50 64 後部補機D50 206

疋田駅午前10時37分定時通過後空転が始まり、速度低下し刀根駅3分延にて

午前10時59分通過。速度8.9kmまで低下し、指導機関士が補機から本務機に

移乗協力しつつ11時13分柳ヶ瀬隧道に入ったが、煤煙と熱気のため乗務員

昏睡状態となり、本務機関車が雁ヶ谷口25mのまで進んだところで運転不能と

なり停止。

雁ヶ谷信号所にて対向停車中の貨物553列車本務および補助機関士が救援に向かい、

午後0時8分頃現場に到着し、午後0時20分ごろ刀根駅折り返し線に到着。

救援の機関士も昏睡状態に陥る。

このため職員12名窒息し、うち556列車後部車掌・後部緩急車乗り組み荷扱い手、

および本務機関車機関助手見習いの計3名が死亡した。

 

なお、この柳ヶ瀬トンネル(長さ1377m)は1884年開通と日本の鉄道トンネル

の中で初期のためトンネル断面が小さく、また上り列車の場合、25の勾配上に

トンネルがあるため、常に乗務員泣かせの区間であった。

のちにトンネル出口に幕を張って煙を誘導したり、

機関車煙突に集煙装置をつけるなど種々対策された。

 

 

信号見落としによる列車脱線転覆

 

昭和5425日 午前701分 石山駅 

急客第5列車 現車14両 換算57両 機関車C53 30 

当日は大高駅で自動車と列車の衝突事故があり、列車ダイヤが乱れ、

該当急行5列車は草津駅を17分延発していた。

折しも下り本線に411列車停車中で、通過急行5列車は中線に振り、

411列車を待避させることとし、場内信号に「注意」現示を出した。

ところが、該当5列車の機関士は、後方の第一自動閉塞に現示された

「進行」信号を場内信号と見誤り、速度を落とさず進入したため、

下り本線と中線を振り分ける分岐機上で機関車が線路に乗り上げ、

124m進行後右側へ転覆、次位客車8両脱線うち1両傾倒、1両転覆、

1両大破する。旅客12名および職員1名負傷。

 

 

 

昭和9年9月21日 室戸台風による列車転覆

 

 

製作時の不良による汽罐破裂事故

 

昭和20年10月19日、醒ヶ井駅 D52209

972列車(現車46両、換算909分)、牽引中汽罐破裂。

機関士重傷、機関士見習い即死、機関助手重傷、機関助手見習い即死。

機関車製作時の工作不良(溶接精度悪)によるもの。

なお、同様の事故が同年8月11日、万富(D5282)同年12月7日、吉永〜三石間

(D52371)で発生している。

 

 

居眠りによる追突事故

 

昭和21年7月26日 午前5時55分ころ 能登川安土間468k370m

急客第5列車(現車12両、換算45両、機関車C5388)が機関車圧縮機の故障により

停車中、貨物第179列車(現車46両、換算78.4両、機関車D51495号)が追突。

機関車が最後部の客車に食い込み、また客車2両転覆。179列車は貨車14両脱線、

11両が転覆し、上下本線を支障した。

死者15名、負傷者68名。

機関士が一時的仮眠に陥り、信号を冒進したため。

 

 

 

米原駅での接触事故

 

昭和43年2月15日、米原発播州赤穂行き759Mが新潟操発吹田操行き貨物列車と接触、
前3両が脱線傾斜、乗客5名が負傷。

クハ111-418、モハ112-60、モハ113-60が廃車に。

 

 

 

膳所駅での貨物列車脱線転覆事故

 

昭和43年6月27日0時24分頃、東海道線膳所駅構内で、吹田操発青森操ゆき
下り貨物2077列車(現車41両、機関車EF15)が1番線進入の際、速度超過のため
機関車と続く貨車31両が脱線し、うち3両が転覆、6両が横転し、上下本線を支障した。
折しも下り本線を定刻(0:23:30)通過中だった富山操発吹田操ゆき上り貨物3574列車
(現車46両、機関車EF15)の機関士は電車線の火花を認め非常ブレーキ手配をとったが

およばず衝突し、機関車が脱線大破し、貨車2両が脱線した。
この際、2077列車のうち3両が京阪電鉄線路へ転落、冷蔵車1両が炎上したが、消防自動車に
より1時に鎮火した。また、脱線した貨車が膳所駅西部信号扱い所に衝撃したため連動装置が
使用不能になった。
米原、吹田より操重車を迎え、上り本線は28日4時30分、下り本線は4時32分にそれぞれ

開通した。また、京阪電鉄線は27日22時40分に開通した。

 

なお、この事故により早朝の東海道線が不通となり、多数の夜行列車が抑止させられた。
そのため、新幹線が早朝5時から新大阪−名古屋間で臨時3往復(名古屋発東京行きを新大阪から、
名古屋発の新大阪行きを3本仕立)運転し、夜行列車の乗客を振替輸送した。

 

 

草津線の落石接触事故

 

昭和44年11月29日、22:23ころ。草津線745D列車(現車3両)745Dは石部駅を定刻に出発し、

時速約60km/hの力行運転で進行中、石部駅より約1kmの地点(28k550m)にて岩石(72m3)が

落下し、列車の前頭部に衝撃した。このため1両目気動車および2両目が全軸脱線し、1両目は

運転室を大破し進行右側に横転し停車した。

745Dには乗客約70名が乗車していたが、この事故により気動車運転士が死亡、旅客17名および
車掌が負傷。吹田操重車を迎え30日17時20分に開通。キハ30 6が廃車となった。

 

野洲駅での信号見落とし

 

昭和50年6月28日

野洲電車区出庫の203便が信号無視により上り本線に割り出し、脱線。

そこに野洲発米原行き回5622Mが接触。

203便の運転士のATS未投入、信号無視、列車防護せず。

(阪急六甲や最近のJR大月と同類?)

当時、野洲電車区から野洲駅へは直接入線できず、上りまたは下り本線を通じて

野洲駅へ入る配線になっていた。

 

初稿04119

加筆04212

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出典;「日本国有鉄道重大運転事故記録」

「鉄道重大事故の記録」

「驀進」

 

なお、他地域の事故については

抹香鯨の鉄道事故年表

に紹介されています。ご参照下さい。

また、事故を扱った有名な文献としては、

「事故の鉄道史」・「続・事故の鉄道史」

「鉄道重大事故の歴史」

「なぜ起こる鉄道事故」

などをご覧になられるといいかと思います。

 

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