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2002年 にゅうたの日
2002年 新田原基地航空祭レポート
(2002.12.21)

本屋さんに行けば、月刊の航空雑誌の巻頭グラフに「○○基地航空祭」という文字を見ることができるだろう。九州にも3つの飛行場があり、宮崎県新富町の新田原飛行場では、11月下旬もしくは12月上旬に基地が開放される。初めて行ったのは大学1年の頃。まだ祖父が健在で、「基地開設40周年」の式典に行くからと誘われたのだった。以来、毎年かささず行くようになった。

今年も“にゅーた”の時期が来た。11月に入ると「今年は何が来るのかなぁ・・・。トム来ないかなぁ・・・。」などと落ち着かなくなるのだが、昨年はアメリカの同時多発テロのあおりを受けて中止であったためになおさら期待は高まるのであった。というわけで12月7日の午後9時、仕事帰りの彼女を拾いつつ宮崎に向かってミニカを走らせたのであった。

福岡都市高から九州自動車道に入り、基山のP.A.付近で交通情報にバンドを合わす。「こちらは・・・。」とアナウンスが流れだし、事故による大分自動車道の区間通行止めを知らせていた。幸い国道へと降りる湯布院I.C.から先の出来事。東へと車を走らせ、そこから湯布院へは1時間半ほど。通行止めから先の区間にはパトカーが何台も停まっており、交通誘導をしている。料金所で情報を仕入れようと思ったが、もう2時間以上この状態が続いているとのことだった。大きな事故で無ければよいのだが。

ここからは大分の山の中を縦断し一気に三重町、延岡へと下る。「急な坂を登って下って、カーブ連続ぅ」みたいな道を抜けるのだ。運転するのにものすごくストレスがかかる。おかげで眠気がすっ飛んでしまった。国道326号の道の駅「うめりあ」で仮眠を入れる。


少し休んで延岡へ。午前2時前には門川、日向を抜け、ほどなく新富町の市街。さすがに疲れた。新田原基地に近いコンビニでしばらく休憩・・・のつもりだったが、基地のある丘陵地へ上がっていく車が多い事に気付く。「そういえば・・・。」と追って基地正門の方へ車を走らせたが、すでにズラーッと車の行列ができていた。最後部へ車を付ける。これでやっと寝れる・・・。6時前にサイレンの音で目が覚めた。外に出ると救急車が走っていくのが見えた。早朝ウォーキングの人に聞けば交差点で出会い頭の事故が起きたそうだ。「ドライバーが車に閉じこめられて・・・」、「ボンネットから白煙が・・・」。なぜこうも事故に遭遇するのだろう。
goidaは事故を連れてくる?
開門!!だけど天気は雨。

段々と空が白けてきた。雨は降っていないが天気は悪い。展示飛行への影響を心配したが、とりあえず開門の時間を待った。7時前になって長い車の列の所々からセルモーターを回す音が聞こえだす。いよいよ開門だ。

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いつもは管制塔の対面。南側アラート門からの入場となるのだが、今回は西側の管制塔側から車を入れる。南側の駐車場に車を止めた場合、「宮崎交通」による有料シャトルバスを利用しての会場入りとなるため今回は運が良かった。歩いて会場へ行けるのである。フィルムを装填して、デジカメの電源を・・・。「あれ?」であった。充電してきたはずの電池が切れている。コンセントが抜けていたなどいろいろ原因を考えたが解らない。
ふとパッケージの説明を読んでいたのだが、「ニッケル水素」の表示。確か充電器は「ニカド充電池」用を買った気が・・・。結局、後になって電池を買う羽目になった。

8時半の開催セレモニーが近づき、賑やかになってきた。エンジンに火が入ったのだろうか。滑走路に「フイーン」というタービンブレードの回転音が響く。しばらくその状態が続き、そして飛行教導隊のF−15がタキシングしていく。この時点で名物の「異機種編隊飛行」の中止が案内された。そしてF−15が轟音と共に空へと駆け上がっていく。デジカメで果敢にも流し撮りに挑んだが、とーぜんながら失敗。このオープニングフライトはF−15とF−4の6機の編隊飛行だったのだが、結局この教導隊所属機1機のみのフライトであった。

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