このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
ホンダコレクションホール
30代半ばより年長の日本人男性で 運転したことがないという人は、まずいないだろうという本田技研工業製の輸送機器。
スーパーカブ、ダックス、モンキー、タクトあたりが入門定番でしたね。 そして、CBXやXL、でシビック、CR-X、インテグラと 乗り継いでもらうというのが本田さんのところの戦略。
そんな「あ、これ乗ってた」に面会できるのがホンダコレクションホールです。
住所:
〒321-3597 栃木県芳賀郡茂木町桧山120-1
言わずと知れたレースサーキットツインリンクもてぎの中にございますので、レースに興味ない人は
ツインリンク
のレーススケジュールを見て空いている時期を狙っていくと良いで しょう。
さて、ホールの入館料はツインリンクの入場料に含まれているので、ホール入り口で入館券を買うこともなく入っていきます。 まず目に入るのが こちら 。 この写真は冬の夕方に行かなきゃとれない。。。 そして右に目を向けるとおなじみの3つの製品が並んでおります。 PGJはホンダの 二輪 にも 四輪 にも、発々にもお世話になりました。 それらのご先祖様ですな。 ここのえらいところは展示物がすべて稼働可能状態であるということ。 動態保存するためには、どれだけのコストがかかるか? たいしたものですね。 |
さて、1階ロビー奥はしばしば入れ替わる企画展示です。 ゼッケン20は1964年のF1レーサーRA271。 ゼッケン60は1960年の125ccレーサーRC143。 ちなみに、ツインリンクもてぎで行われた本田創業50周年祭で聞いた60年代のレーサーの排気音は 50ccといえども異常なまでに「やかましく」、まさに雷族状態な音でした。 左のゼッケン40は1982年のNS500。 「脳みそが入ってないぶん、軽量化されていて速い」と悪態をつかれるくらい フレディースペンサーは速かったですねぇ。 当時本田党であったPGJはスペンサーのきちがい走りを応援していたもんでした。 |
1階右奥も企画展でしばしば変わりますが2010年春は2足歩行研 究の歴史でした。 というわけで、ズラーッと。。。 足だけの実験機は、その昔TVニュースでしばしば取り上げられていましたね。「3歩も歩いた!」とか。 こんな研究をやり続けるところにホンダの魅力を感じるユーザーは多いのでしょう。 当然、主人公はアシモ。 踊ったり走ったり忙しい。 | |
2階はバタバタから始まるホンダの民生品の数々。 浜松で創業したころの製品群。 右上はCL72スクランブラー。 これが80年代の学生時代7万円で中古で出ていて、 欲しかったが買えなかったなぁ。 当時は旧車ブームの前で、この手の骨董品が二束三文で買えたものです。 が、田舎の理科系貧乏学生には、それでも高根の花でした。 なにしろPGJの学生時代は 「今日、俺んちの牧場で乾草上げあるけどバイトに来る?1日5000円」 「行く!」というのがめったとない、臨時収入源な田舎学生だったです。 ヨンフォア(右下)は有名でしたねぇ。 車検ありの二輪車はとても維持できないので、 PGJのバイク歴は小排気量が圧倒的に多い。 ただし、これでパワーバンドを使い切る習性が身についてA3に乗るまでは二輪四輪問わず 運転はタコメーターとにらめっこになったのでした。 ブルータンクはCB125JX。 これと同じエンジンでXL125K2に乗っていたPGJ]は、このJXが欲しくて社会人になってから 中古バイク屋を探して回ったものですが、帰ってくるのは 「ありゃーあらかた東南アジアに輸出されちゃったよ」という返事ばかり。 とうとう、乗る機会はありませんでした。 残念 |
左上は
バ イアルス125
(1973年)。 このTL125シリーズはイーハトーブと名前を変えたりしながらPGJの乗った TL125まで続きました。 125CC単気筒のこのエンジンはバリエーションが色々ありましたねぇ。 どれも好きでした。 自分で分解整備もできるシンプルで良いエンジンだったな。 (全バラシは XL125K2 でやりました) 左下はPGJが学生時代だったか? コミューターに良いなぁ と見ていたスクーター リトラクタブルヘッドライトのスクーター、 ス ペーシー125 整備性が最悪でバイク屋泣かせだったらしい。 真っ赤なビートは、その後車名を四輪に譲ります。 こちらは足踏み式切り替え可変排気チャンバーを搭載した 50cc ビート 。 フロントフォーク式サスペンションは画期的でした。 でもドラムブレーキ。。。 下はシルクロード。 CL72の代わりに買いましたが、、、 重かった 。。 スペーシーと云いシルクロードと云いオートバイバブルで二輪車メーカー各社が めちゃくちゃな製品を出していたころの製品ですhi |
右上は 限定生産NR(1992年) 520万円也 バブルの遺産ですなぁ。 金持ちだったら買っていただろうね。 当時はXYLとどこへ行くにも2台の二輪車で走っていたころで、一番バイク狂だったころ。 ただし、当時の年収の倍以上ではとてもとても。 いやー。 貧乏だったhi さて、 四輪車のコーナーになりますと、これ以外に思い入れのあるホンダ製品はありません。 ビートとNSX。 NSXも今見ると前輪の位置があんな後ろで時代を感じさせます。 ツインリンクもてぎが開業したころは、ホンダコレクションホールの一番良い場所に 誇らしげに展示されていました。 まさに「今は昔」 一方、ビートは本当に楽しい車でした。 PGJは似たような軽自動車オープントップのダイハツコペンにも乗っていますが、 ビートの楽しさは比べ物にならない「日本で乗る最良の車」でしたね。 |
3階はレーサーのフロア。 まずいきなり置いてあるのがカーチス号。 詳しくはこちら 。 | よくもまぁ 道楽でこんなものを作る人がいたね。 |
ガードナーとスペンサー。 私はVK(オーストラリア連邦)の田舎もんガードナーが好きだったな。 80年代中期の代表的ライダー。 ヤマハのエディローソンも速かったですな。 ロスマンズ。 儲けていましたなぁ。 PGJのZL時代の煙草もロスマンズ17mgでした。 そしてそれが最後に吸ったたばこでもあります。 |
今は乗りたくなるような 乗り物はほとんど作っていない本田ですが、昔は夢を売ってくれていたんだなぁ とつくづく展示を見て思うのでした。 本田技研ホームページはこちら (c)ZL2PGJ 2010 PGJ の車歴へ PGJのバイク狂時代 使用条件 趣 味のページトップへ戻る 。 ホームへ戻る |
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