2.両筑軌道!
田主丸から秋月まで!朝倉&筑後軌道に連結していた怪しい軽便鉄道! 両筑軌道といえば、橋が流されて追い込みかけられた悲運の軌道である。しかし、筑後地区から筑前地方に至り、筑豊地方まで延伸しようとした遠大な構想に向かって進んだ雄雄しき軌道でも或る。
上田主丸から、秋月まで、上田主丸は筑後軌道に連結し、秋月は現在の秋月市街地より結構手前、いつも秋月に入る旧道よりもう一本東にある畑の中にある道のさらに東、ホントの畑の中に位置していた。結構一杯駅があって、田主丸−櫻町−板町−立野−筑後川−中村−林田−鎌崎−小田−鳩胸−一ツ木−来春(らいは)−三福小路−水町−七日町−甘木−大塚−安川橋−下淵−千住橋−女男岩−秋月というラインナップである。県道33号甘木田主丸線、国道386号線、国道322号線がその跡に沿っているか?国道322号線は両筑軌道の跡地になっている部分が多そうだ。しかし、道路上に設置されていない部分も多く、廃線跡が細い道に形を変えている所も少なくない。
筑前と筑後を結ぶという事で、明治四十四年九月に創立された両筑起動株式会社は、大正元年九月に田主丸−甘木間で営業を開始している。明治最後の年に創立され、大正最初の年に営業を開始した軌道だ。大正二年には秋月−甘木間の営業も開始している。
明治四十四年一月には朝倉軌道は二日市から朝倉町の恵蘇宿まで延長しているから、甘木地方は朝倉軌道と両筑軌道を介して、多くの物産を運搬する動脈を得た事になり、経済に貢献したであろう事は想像に難くない。
この頃の筑後地方軽便鉄道の特色は、地元素封家が地元経済の成長の為に資金を注ぎ込んでいる。田主丸・秋月の下座地区の金持ちが頑張って、日田金や吉井銀、そして草野銀に対抗したのだ。だが、大正十年の大洪水が両筑橋と両筑橋に併設されていた鉄道橋を押し流し、両筑軌道は両筑ではなく筑前・筑後に分断されてしまう。
両筑軌道の筑後側は、田主丸−櫻町−板町−立野で終わるのだ。そして久留米の方が都市としては巨大な消費地でもある。加えて、当時既に筑後軌道の開通で筑後側の水運は崩壊していた。筑後軌道との連結は必至であったし、もはや二日市から?朝倉軌道だけでは、、、甘木地方の経済の為にも再建必至だったというので、当時の村々から二人づつ出して、両筑軌道存続期成会を結成!本社が田主丸であったが、七日町に出張所を設けて、そちらで様々な業務を開始し、会社再建を目指したが、免許制度はそんな両筑軌道に追い込みをかける事となる。
運休申請しても認可されず、全員解雇して運転士は隣の筑後軌道の非番(!)のモンや、臨時雇(何処から引っ張った?)で間に合わせ、午前・午後各一回の運行で頑張ったのだ!
苦節四年、頑張った結果、大正十四年五月、七十五万円まで増資していたのに、全資産を二十五万で新両筑軌道株式会社に売り払って、心機一転巻き返しを図ったのだ。図ったのだが、鉄道橋は再建される事は無かった。本社が田主丸だが、ほとんどの業務は甘木の七日町停留所に新設された出張所で行われたという。
昭和五年には、甘木−田主丸間の軌道は廃止され、両筑橋を経由する自動車で運行されるバス会社状態になる。
そして昭和六年三月には連結する朝倉軌道に買収され、両筑軌道株式会社に戻るのだが、甘木−秋月間も自動車運行となり、軌道としての営業実態は消滅していたが、長く両筑軌道の名前を保ち続け、社名から軌道という表記が消えるのは、昭和十四年の朝倉軌道自動車部との合併を待たねばならない。
古今東西、何処でも、鉄道橋の流失が経営に打撃を与える事に違いは無い。もしも、県道の両筑橋の上を両筑軌道が通っていたら、今とは違った歴史が紡がれたと思うと、残念でならない。三井電気軌道(現在の西鉄甘木線と今は無き福島線)は宮の陣橋を渡っていたから、無理ではなかっただろうに。宮の陣橋は鉄骨リベット留めという無骨な鉄橋であったが、両筑橋は木と鉄で出来た橋であったが故に、不運な軌道であったと、思わざるを得ない。
ちなみに両筑軌道の駅名一覧だ!
田主丸地図に拠れば、国道二百十号線の上田主丸バス停付近で筑後軌道に連結していた。
櫻町田主丸小学校をぶち抜いて田主丸盲学校の角当たりに櫻町という地名があり、そこみたい。
板町今も在る板町バス停あたりか?或る掲示板で建設前の発掘作業で石炭ガラを掘り出した記述がある。
立野立野の集落のど真ん中!狭い道が伸びていて、あ、これが軌道の跡だなと感じる。
筑後川現在の楓という集落の西の外れくらいか?
中村現在の中村バス停周辺?桂川を渡ったあたり?
林田林田の信号の北側、片延の集落のあたり、林田ってバス停があるんです。
鎌崎
小田
鳩胸
一ツ木
来春(らいは)33号線から県道八重亀菅野来春線に入ったトコあたり。
三福小路学校前あたりかな?
水町鉄路は住宅地に消えている、判らない。
七日町出張所があったトコで、国道七日前信号から南に少し入ったあたり?
甘木今のバスセンターは、朝倉軌道の駅跡らしいし、、
大塚
安川橋どっちだろ?橋の袂?今の下淵バス停のあたり?
下淵今の下淵バス停のあたり?
千住橋今の千住バス停のあたり?
女男岩今の夫婦岩バス停のあたりかな?
秋月秋月の入り口の石橋から道一本向こうの畑の中にぽつんとある。
上記は筑後の貨幣と小話集に記載された切符に拠っている。
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参考文献
久留米市史、田主丸町誌、久留米市誌、御井町誌、浮羽郡誌、御井小学校創立百周年記念誌、筑後の貨幣と小話集、甘木市史、浮羽町史、吉井町史、鉄道廃線跡を歩くⅨ、日田・玖珠の100年、日田文化27号(出版社・著者・版数等未記載省略)
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