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2006年12月9日(土)15時よりかながわ県民センター・ホールにて
〜マレーシアより葉徳明さんを迎えて〜
ヤップさんは日本の右傾化を危惧!
(司会者より)
本日証言していただく葉徳明さんは、かつてマレーシアで、抗日軍に加わり活動されていました。しかしこれまで、マレーシアでの抗日軍の活動について、証言するということはほとんどありませんでした。今回、ヤップさんが初めて、抗日軍の活動についての証言をしようと決心し、証言集会のために来日してくださったのは、マレーシア国内での抗日軍に対する再評価の動きもありますが、それ以上に昨今の日本の右傾化に対する危惧があってのことだと思います。
常夏の国マレーシアからご高齢にもかかわらず、日本にわざわざお越しくださり、わたしたちのために過去の日本の加害行為について貴重な証言をしてくださいますヤップさんに、感謝したいと思います。本日お聞きするヤップさんのお話を心に刻み、二度と過ちを繰り返さぬよう、戦後世代が大半を占め、戦争の記憶がますます遠くなっている現代だからこそ、過去に逆行するような世の中の動きには、強く反対の意思を表明していきたいと思います。
林博史 関東学院大学教授の講演 ①
手元の資料の二枚目のレジメをご覧ください。地図があると思います。ヤップさんは1927年生まれで、79歳だそうです。現在はクアラルンプールにお住まいだそうです。マレー半島の真ん中よりちょっと南のほうですね。マレー半島というのは北から南にかけて山脈が走っています。錫鉱山が有名です。この山脈の両側で、錫がたくさん採れます。
人民抗日軍は山岳地帯に
今日は人民抗日軍という日本に抵抗したゲリラ組織の話が出てきます。それを組織していたのは、マラヤ共産党という組織です。マラヤ共産党の組織は、錫鉱山の労働者に大きな力を持って、その組織を拡大していきました。
人民抗日軍というのは、ゲリラ組織です。ゲリラには隠れ場所が必要です。山岳地帯のジャングルの中に自分たちのキャンプを構えます。平野には隠れ場所が少ないので、山脈に沿ったところにいたわけです。
ヤップさんが日本の占領中におられたのがカジャンという町です。クアラルンプールから少し南東のほうにある町で、山脈の端にあります。彼が所属した人民抗日軍の部隊も、ちょうどその山岳地帯にキャンプを構えています。地図を見るとそのあたりが分かっていただけると思います。
マレー半島は中国系とマレー系がほぼ同じくらい
マレー半島は、約十三万平方キロメートル、人口は当時、五百五十万人ほどです。中国系とマレー人がほぼ同じぐらいです。もともとはマレー人だけでしたが、十九世紀以降、イギリスの植民支配の下で、労働力として中国から相当たくさん来ます。ここに住んでいる人々の中には当然、ヨーロッパ人もいますし、欧亜混血人、ユーラシアンという人たちもいます。そういう社会です。
抗日軍とは?
抗日軍について簡単に説明させていただきます。マレー半島は当時、イギリスの植民地です。マラヤ人民軍というのは、非合法な組織で多くの共産党の活動家は、当時、監獄に入っていました。
12月8日に日本との戦争が始まると、マラヤ共産党がイギリス当局に対して、「我々も共に日本軍と戦うので釈放してほしい」という呼びかけをします。12月15日にマレー半島のイギリス当局が、共産党員を全部釈放します。日本に抵抗する抗日の協力関係ができるわけです。
特別訓練所をSOEが作る
協力として行なったことのひとつが、1941年12月21日より、スペシャル・トレーニング・スクール(特別訓練所)、「101特別訓練所」をシンガポールに作ります。これを組織したのはイギリスのSOEという特別作戦部隊、イメージとしてはアメリカのCIAを考えればいいのですが、軍ではないが、軍に近いもので、秘密工作を行なうような組織SOEが、その訓練所を作ります。
そこに、マラヤ共産党が青年を送り込んで、軍事訓練を行なうのです。当初は、10日間位の日程で、後に、日本軍がどんどん北から攻めてきますので、最後のほうはもう5日間ぐらいしか訓練期間はなかったのです。そのときに、銃の撃ち方や手榴弾の扱い方、爆薬の扱い方など、10日間でどれくらいできるかは疑問ですが、とにかく急いで訓練しました。最初150人ぐらいを訓練しました。
マラヤ人民抗日軍の第一独立隊〜クアラルンプールに〜ヤップさんの参加した部隊
日本軍が北から攻めてきた状況の中で、ます、シンガポールで訓練した中国人に、日本軍の占領地を、後方からかく乱するという任務が与えられます。最初の15人が12月に送り込まれてきます。わずか15人ですが、クアラルンプールの北のほうまで来ます。日本軍はすぐ下のほうまで行ってしまい、何もできないままに、取り残されます。セランゴール州のクアラルンプール周辺のマラヤ共産党の組織と連絡を取って、ジャングルの中にキャンプを作ります。これが後にマラヤ人民抗日軍の第一独立隊として正式に認められます。これは半年後には約100人になります。ヤップさんが参加した抗日軍は、この第一独立隊です。
第二独立隊〜ネグセンビラン州〜イロンロンに
セランゴール州の南にネグリセンビラン州があります。アジア・フォーラム横浜でも、何度かこのネグリセンビラン州から、日本軍の住民虐殺から生き残った方をお招きしています。
35人は、北部戦線に行く予定だったが、ネグセンビラン州までしか行けなかった。ここで、クアラピアの警察署を襲撃するが、余りにも未熟だったので、失敗し、副隊長が戦死し、負傷兵をたくさん出してしまいます。
ネグセンビラン州は北側が山で、南は平野です。部隊は、このネグリセンビランの北のティティ方面に移動します。イロンロンという約1000人(現地の記念碑には1400人とあります)の住民が、殺された村があるのですが、そこから少し入ったジャングルにキャンプを構えました。これが第二独立隊です。
それから第三独立隊と第四独立隊(60人と55人)が、1月の末に出発して、第三はジョホール州の北部に、第四はジョホール州の南部にキャンプを構えます。
クアラルンプールにSOEが、102特別訓練所を作ります。そして、クアラルンプールの北にあるペラ州に青年を訓練して送り込みます。これが後の第五独立隊です。パハン州に第六独立隊、トレンガヌ州に第七独立隊ができます。一番北の端のケダ州に、第八独立隊が1945年8月、日本の敗戦直前にできます。
このようにマラヤ抗日軍は、八つの部隊で構成されます。最終的に日本の敗戦の時点でどれだけの人数がいたのかということは、ちょっと難しいことなのですが、イギリス軍の報告書では、3000人から4000人と報告しています。
ライテクの裏切り
人民抗日軍のバックにはマラヤ共産党があるのですが、マラヤ共産党の最高責任者、ライテクは日本憲兵隊に逮捕され、日本軍のスパイになります。共産党の最高責任者が日本の憲兵隊のスパイであるという複雑なものになった。ライテクは共産党内の自分のライバルをどんどん憲兵隊に売り渡していくんですね。だから何か大事な会議があると、日本の憲兵隊がそれを襲って逮捕していき、逮捕された指導者は、大体拷問され、殺されていくんです。そういう形で、ライテクは自分のライバルを、日本軍に全部売り渡して、自分の共産党内の位置を確立していきます。
イギリス軍 後方工作チーム Force136部隊と抗日軍の接触
ただ一方で、43年に入ってから、イギリスは、マレー半島を取り戻すということで、インドとセイロンから秘密のチームを送り込んできます。Force136部隊です。潜水艦で近くまで来て、浮上してボートで上陸し,ジャングルの中に入って、抗日ゲリラと連絡を取るということをやります。
ようやく43年の年末にそのSOEの部隊とマラヤ共産党の指導部との連絡が取れ、お互いに協力をする。45年に入ってから、インドやセイロンから飛行機で上空から、抗日軍に対して食糧、医薬品、武器弾薬をパラシュートで投下して援助する。イギリス軍は、SOEの将校を各独立隊に派遣をします。各抗日軍の部隊にイギリス軍の連絡将校が入っていて、彼らの報告書が残っているので、抗日軍の状況がよく分かっています。マレー半島の人民抗日軍というのは、自分からは日本軍に攻撃には出なかったようです。少しはやっているのだが、これは中国のゲリラとは違い、もっぱら勢力を蓄えるという方向だったようです。
戦略村〜住民とゲリラを切り離すため
戦略村について説明します。抗日軍は山岳地帯のジャングルの中ですから当然、食料などない。山の近くの村に入って食料などをもらうわけです。日本軍は山の近くにある村を強制的に移住させます。場合によっては鉄条網で囲ったりします。ゲリラに村人が食糧などを渡すのをやめさせようとします。それで、山岳地帯の周辺の人々が、強制移住させられて戦略村に住まわせられます。もともとの自分の村からは切り離されますから、食糧事情が悪くなったり、大変苦しい思いをします。この方式は後に、ベトナム戦争でアメリカがやります。ゲリラと住民を切り離すというその手法を日本軍はとります。以上で、簡単に背景の説明を終わります。ヤップさんの話をじっくり聞いていただきたいと思います。
葉明徳(ヤップ・タックミン)さんの証言
壊された一家10人の平和な生活
わたしはマレーシアから参りました。平和を守っていきたいと思っている葉徳明(ヤップ・タックミン)です。アジア・フォーラム横浜の招待で日本に来て、私の体験をお話します。
1941年12月8日から1945年8月15日の間の「3年8ヶ月」の大変だった時代のことを話します。
日本軍がマラヤ半島に攻めてきたときの、わたしの家族構成は、父、母、一番上の兄、兄の奥さん、その子ども、二番目の兄、それからわたし、妹2人、弟、合わせて10人家族でした。マレー半島の真ん中部分のセランゴール州のカジャンの町の近くの村に住んでいました。
村の人々は、ゴムの木の樹液を採取する仕事、木材の伐採、サツマイモの栽培、バナナの栽培、山の米(陸稲?)、野菜などを栽培、魚の養殖、錫鉱山の仕事をしたりして生計を立てていました。父親は、客家(はっか)の出身です。仕事は伐採の仕事です。母と一番目の兄と二番目の兄は、他の人のゴム園でゴムの樹液をとる仕事をしていました。その時の私は、村の小学校を卒業したばかりでした。中学に入る前のわたしは家の手伝いをしたりして、幸せに暮らしていました。
日本軍がコタバルに上陸したのは ヤップさん14歳のとき
私は、1927年1月3日生れです。わたしが14歳のとき、1941年12月8日に日本軍がマレー半島のコタバルに上陸し、我々の国を侵略しに来たのです。
1942年2月15日にはマレー半島とシンガポールを日本軍が占領しました。
もともとマレー半島ではゴムとか錫とかが生産されていました。ところが、その時は、輸出もできず、生産は止まってしまった。その時一番困ったのは、食料が足りなかったことです。日本軍のお米の配給はとても少なかった。とても足りませんでした。みんな山に行って、バナナ、サツマイモ、野菜、陸稲などをを作っていました。物はなくって、物価は上昇しました。
村人は抗日軍に協力
わたしの住んでいた村はジャングルに近いです。そこで村の中にたくさん抗日軍の人たちがいました。彼らと村民は知り合いで、村人はお金を出して、そのお金で、薬品を買ったり、食糧を買ったり、日本軍の情報を集めたりということをやりました。
その時日本軍はカジャンの町に駐屯していました。小学校、中学校では授業はできませんでした。学生たちも家に戻り、食料の調達をしていました。その時の日本軍は、何人かの裏切り者を連れてきて、抗日軍のことを調べに来たり、村の近くのジャングルに入って、抗日軍のキャンプを探しに来たりしました。
抗日軍探し
抗日軍のキャンプが見つからないときは、大変です。裏切り者が、これは抗日軍だと、かってに指名してしまったのです。日本軍も言われるがままに、あまり調べもせずに、憲兵隊に村人を連れて行き、拷問したのです。抗日軍のことについて話すことができなければ、そこでひどく拷問されたのです。
そこで拷問に耐え切れずに、抗日軍だと、隣の人を言ってしまうこともあったのです。抗日軍だと言われた人は捕まって殺されてしまうのです。言った人も逃げられないのです。抗日軍としてその人も日本軍は殺してしまうのです。
兄が拷問され殺される
わたしの一番上の兄は、抗日軍として密告されたのです。日本軍に拷問された。手を縛られ、ぶら下げられ、ひどく殴られる。それから、ホースで水を飲まされ、お腹を膨らまされる。その上で腹を殴られ、水を吐き出させる。そんなひどいことをされた。もっともっとひどいこともされた。そして殺されてしまったのです。兄の奥さんと子どもは、奥さんの実家に帰りました。
日本軍の先頭を歩かされる
日本軍が抗日軍を攻めるときには、必ず少年を捕まえて、先頭を歩かせます。それは、弾除けや地雷よけのためです。もし無事に戻れたときには、米をもらえました。
食料がなかったときなので、この米は、家に持ち帰りました。家に帰って先頭を歩いて米をもらったことを母に話すと、「これは、あなたの血と交換してきたお米だ。これからいくら食べ物がなくても、こんなことはやめなさい。」と言われました。
日本軍は村の女性たちを強姦
村に駐屯した日本軍もいました。日本兵は村の鶏を捕まえ、村の女性たちに料理させ、料理を食べたあとで、日本兵は、その女性たちを捕まえ、その場で強姦してしまったのです。わたしもその場にいて、見たことです。
そのことがあってから、日本兵が来るということが分かると、女性たちは必ず、村から逃げ出しました。ゴム園やジャングルに隠れました。
日本兵には、夜になると村人は、家に帰ると分かっていたので、そこを狙って、村人を捕まえに来ました。そして、憲兵隊に連れて行き、拷問しました。情報を提供できなければ、ひどく拷問され、殺されました。このようにたくさんの村人が、憲兵隊や警察署の中で殺されてしまったのです。家に残された妻や子どもたちは、一家の働き手を失い、生活できなくなりました。
日本軍に捕まり拷問される
日本軍の占領中に、わたしの父親、2番目の兄、私、他の村人の約50人ほどが日本軍に捕まり、ソメイユの警察署まで連れて行かれました。屋外で拷問され、3日間捕えられ、夜でもひどく拷問されました。気絶するまで殴られました。
3日目の朝、警察署から出され、広場に集められた。その時は2組に分けられました。カジャンの特高科の課長が、来るまで待たされました。その時、密偵たちは、「今晩、カラン川に連れて行ってそこで頭を洗う」と言ったのでとても怖かった。「頭を洗う」とは、首を切ることだったからです。
朝の9時半ごろ、日本軍が、「日本軍に協力しろ。協力しなければ殺す」とみんなに言いました。その後、私たちの組は、釈放され、家に戻されました。もうひとつの組は、カラン川に連れて行かれ、殺されてしまいました。このように日本軍は、罪もない村人を殺してしまったのです。
戦略村となる
日本軍は、それぞれの村に「維持会」「華僑協会」「自警団」を作らせました。その時は地元の有力者の華人が会長になった。私たちの村にも「自警団」が作られました。17歳以上の男は必ず参加しなければなりませんでした。一番目の自警団の団長は「フー・ファンシン」、二番目の団長は「ロー・ワン」でした。
私たちの村は、日本軍の命令によって、ジャングルに近いところの家はすべて壊し、村の真ん中に家を集めました。周りのゴムの木を切って、フェンスを作り、いわゆる戦略村を作りました。フェンスの外の村人は、フェンスの中に家を建て直して暮らさなければなりませんでした。
この戦略村は、通りに面して、出入り口があり、ジャングルに面して、もうひとつの出入り口がありました。その入り口は、サツマイモ畑にも面していました。日本軍は、この村に、12人のマレー人やインド人を警備として派遣していました。この村の自警団とも協力して警備していた。午後7時から翌朝の7時までは、外出禁止でした。この規則を破り、見つかったら、殺してもよい命令が出されていました。それ以外の時間は、田んぼで仕事をしてもよいことになっていました。
日本軍は、「この自警団があり、フェンスがあれば、抗日軍はこの村に入って活動できないだろう。だから治安はよくなる。あなたたちの生命も保証できる。」と言いました。しかし、そんなうまくはいかなかったのです。
抗日軍が警備の銃を奪う
ある日、抗日軍が、農民の服装をして、午後6時ごろ村に入ってきて、警備の人の銃を奪いました。翌日、大勢の日本軍が抗日軍を探しに来ました。12人のマレー人とインド人の警備の人も、大勢の村人も日本軍によって警察に連れて行かれ、拷問されました。
同じ日の午後5時ごろにすべての村人が、戦略村の裏のゲートのところに集められた。日本軍は、12人の警備の頭を切るところを見ることを強要しました。村民が見ることを嫌がったりしたら、殴られました。日本軍は、「日本軍に協力しなければ、この12人のように、頭を切るぞ」と村人を脅しました。これを見た後、私は食べ物ものどを通らないし、夜も眠れませんでした。
二番目の兄 日本軍の兵補となる
日本軍は兵士の数が足りないので、若い男を徴兵に来ました。ソムニエにある自警団の団長「ツン・リー」は、私の二番目の兄を選び出し、兵補として、クアラルンプールにあるキャンプに行かせました。訓練の後、泰緬鉄道(死の鉄道)あたりに行かせられることが分かり、兄は、「泰緬に連れて行かれたら命はどうなるかわからない」と考えました。一番目の兄も日本軍によって殺されているし、大変迷ったらしいが、そこを逃げ出して、ソチャの抗日軍に参加することにしました。
兄を探しに家に日本兵が来る
クアラルンプールのセントールキャンプから、兄が逃げ出した翌日、日本軍が我々の家に攻めてきて、父、母、私の3人は、セメギエの警察まで連れて行かれました。「二番目の兄はどこに行ったのか」と聞かれましたが、「キャンプに徴兵されて、まだ帰ってこない」と答えましたが、そんな答えに日本軍が納得するはずはなく、3人は母も含めて、ひどく殴られました。
拷問され、家に放火される
警察署に3日間捕まり、殴られ、拷問されました。やっと3日目に釈放されました。「10日間のうちに兄を連れてこなければみんなを殺す」という条件がつけられました。
帰ってから、怖かったので、父と私は戦略村の外のジャングルで暮らすことに決めました。昼間は畑仕事を続けていたので、食糧は作ることができました。1週間後の朝6時ごろに、日本軍が来ました。村の外にいたので見つかりませんでした。母が、父と私は「外で働いている。帰ってきたらすぐに日本軍に連絡します」と日本軍に言ったとたん、日本軍は大変怒りました。すべての人が家から出され、荷物をひとつも持ち出せないうちに、日本軍は家に火をつけ、燃やしてしまったのです。
抗日軍に参加
こういう状況の中で、抗日軍に参加せざるを得なくなりました。1943年9月のことでした。抗日軍に参加するときには、「ユエ・リャン」と言う別名を使いました。参加したのは第一独立隊でした。8中隊の22分隊の12小隊でした。
部隊での生活は、朝6時起床、朝ごはんの後、読書。ゲリラの作戦の戦略について勉強したり、銃の扱い方など貴重な弾を使わないような練習をしていました。午後は歌を歌ったり、他の活動をしました。
部隊は2週間おきに十数人の仲間が村に行き、村にいる仲間が買ってあった食糧や医薬品や豚肉などを運んできました。部隊の中の日常生活は大変だった。椰子の葉で葺いた屋根の小屋に住んでいたが、強い風が吹くと椰子の葉は飛んでしまった。我々のキャンプはいつも移動していました。食糧や医薬品の購入が楽なので、村の近くに駐屯することが多かったのです。
我々の部隊は、あまり武器や装備などがありませんでした。夜は出て、日本軍のふりをして、小さな町の警察署を襲ったり、政府の農場を攻撃し、銃、薬品、牛、羊などを奪いました。
貧弱な武器
日本軍が我々のキャンプを大勢で攻めて来たときには、銃や手榴弾を使って抵抗しました。日本軍の銃はたくさんあり、しかも新しい。機関銃とか軽機関銃とかがたくさんあり、弾も雨のように撃ってきました。我々の銃は少なく、形式は古く、使えない物もあり、撃っても弾が出てこなかったりする。仕方なく、ジャングルの中に逃げ込みました。
日本軍はジャングルには入りたくない。なぜなら、ジャングルの中にはたくさんの地雷が埋めてあったからです。日本軍側は迫撃砲や飛行機で爆撃したりしたが、あまり目標ははっきりしないので,その攻撃は役に立たず、我々の被害はありませんでした。
ジャングルでは食糧が問題になってくるが、野生の果物、野菜、川の魚などを食糧にしました。ジャングルでは銃を撃っても大丈夫だったので、いのしし、モンキー、像を撃って食糧にしました。
日本軍との戦闘では、我々は逃げることのほうが多く、散らばってしまったときには、8日から10日間ぐらいして連絡して部隊に戻ってきました。逃げているときには、2日間位の食糧は持っていたが、それが終わったときには、ジャングルの中の野生の果物や野菜を探して食べました。夜になると、農場に行きサツマイモなどを掘って食べました。その時は猪がいても銃は使えませんでした。なぜなら、我々の居場所が分かってしまうからです。夜、雨が降ってぬれることがあっても体温で乾かす以外なく、とても寒い思いをしました。抗日軍活動では、このような大変な日々を過ごしました。
村を犠牲にしてしまった事を悔やむ
ある日、日本軍がカジャンの町からセメギの小さな警察署に銃を補足するという情報が入りました。待ち伏せし、銃を奪い、日本軍の軍服も取ってきました。日本軍は大勢で反撃してきました。近くの村の村人を捕まえ、たくさんの罪もない村民を殺してしまったのです。村人は抗日軍の大事な仲間です。彼らから食糧やお金をもらったり、日本軍の情報をもらったりするとても大事な仲間ですから、その人たちを犠牲にしてしまったことは、残念でならない。今後、待ち伏せするときには、必ず近くに村がないところで、しなければいけないと反省しました。大事な仲間に被害を及ぼしてはいけないと思いました。
二番目の兄が戦死
何度も日本軍と戦闘があったが、カチャオという地域で戦闘があったときのことです。二番目の兄がその時に日本軍の銃撃で死んでしまいました。
戦争末期に、136部隊を通して連合軍からたくさんの物資が届いた。B29の飛行機から落下傘で銃などが投下されました。
戦争が終わり家に帰り、 家族に再会
1945年8月15日に日本が降伏し、そのとき、抗日軍は2つに分かれて任務に就きました。ひとつは、町で人民委員会を設立し、イギリス政府と協力し、治安維持にあたり、もうひとつは、秘密部隊になりました。
復員のときには制服も武器も全部返しました。そして、家に帰り、父も母も兄弟も無事だったことに感動し、それが何よりうれしいことでした。
マレーシアは今平和な独立した国です。観光にいらしてください。熱帯に近い気候で、四季の温度もあまり変わりなく、地震もなく火山もありません。マレーシアにはおいしい果物がたくさんあります。果物の王様と言われるドリアン、果物の女王様のマンゴースティン、ランプータンなどありますから、どうぞ食べにきてください。最後に、皆様のご家庭のお幸せとご健康をお祈りいたします。ありがとうございました。
林博史関東大学教授の講演 ②
【マレーシアの抗日軍について】
公開処刑、曝し首の衝撃
今の証言の中で分かりにくいところがあったので、少し補足します。ヤップさんの話の中の二番目のお兄さんが兵補にさせられたとありました。この兵補とは日本軍の補給部隊として、マレーシアの現地の人を使ったのです。泰緬鉄道の工事に駆り出されるのではないかということで、そこから逃げ出して、抗日軍に入ったということです。
ヤップさんの話の中で、公開で処刑をされると言う話がありました。20世紀にそんな話があったのだろうかと、信じられないようなことです。お手元の資料の4ページをご覧ください。シンガポールの元駐日大使リー・クーンチョイさんという方が、回顧録を書いています。その中で、バターワース(ペナン島の対岸)の町で、みんなの見ている前で、日本の将校が首を切るという場面を書いています。そしてその首を曝し首にするということはシンガポールでも何か所もあったし、マレー半島でも、同じようなことが行なわれていまし。そのことが、マレー半島の人たちには大変衝撃でした。大量虐殺は中国系の人々に対してでしたが、曝し首にされたのは、中国人もマレー人もインド人もいました。公開処刑や曝し首のような残虐な行為が、マレーやユーラシアの人たちなど現地の人たちには、大変な衝撃でした。
どういう人たちが抗日活動に加わったのか。
*マラヤ人民抗日軍 *中国国民党系抗日軍 *マレー人抗日組織ワタニア
マラヤ人民抗日軍は、共産党が中心になっているが、共産党とは関係ない人で、家族が日本軍に殺されたとか、自分がやられそうになったということで、抗日軍に入った人もいます。共産党系だけでなく、中国国民党系の抗日軍もあり、ペラからコタバルにかけては国民党系のゲリラがいます。
マレー人の抗日組織ワタニアもありました。日本軍がマレー半島を攻撃したとき、イギリス軍の中にマレー人の将兵がたくさんいました。シンガポールで日本軍の捕虜になったときに、特に将校に対して、「日本軍に協力しろ」と繰り返し言うのですが、「我々はイギリス軍の将校、兵士であるから、きちんと扱うように。日本軍には協力しない。」と言いました。その結果、少なくとも8人のマレー人の将校が2月28日に処刑されています。その他、日本軍に協力しなかったということで、何十人かのマレー人将校や兵士が、処刑されています。それ以外の将兵は釈放されます。自分たちの仲間がこのように日本軍に殺され、捕虜としても扱ってもらえなかったマレー人将校、兵士が、抗日軍組織に入って、抗日活動を行ないました。このように、自分の肉親や友人が日本軍の残虐の犠牲になり、日本軍に反発して抗日活動にかかわっていく人たちが多かのです。
マレーシア初代首相アブドウル・ラーマンの一族の人が、日本軍に殺された将校の一人でした。だから、アブドウル・ラーマンは日本軍の暴虐を厳しく批判しており、日本軍に対して非常に厳しい。
日本軍はマレー人を利用するわけですが、マレー人が日本軍に協力的だったかというとそうではない。日本軍に反発していた人たちが多かったわけです。
シンガポールの英雄 エリザベス・チョイさん と シビル・カシガスさん
今日は、抗日活動にかかわった女性の話をしようと思います。この人たちはシンガポールでは女性の英雄になっています。エリザベス・チョイさんとシビル・カシガスさんのケースを紹介します。
シンガポールのジャンヌダルク
エリザベスさんはシンガポールでは、有名な方で、シンガポールのジャンヌダルクと言われています。
憲兵隊本部で198日間の拷問
1943年の11月に、エリザベスさんは、夫婦で逮捕されます。イギリス兵の捕虜たちがチャンギ捕虜収容所に収容されていました。その近くの病院の中で食堂をやっていたエリザベスさん夫婦は、イギリス人捕虜たちに、食糧やラジオなどを、頼まれて差し入れしました。そのために憲兵隊につかまり、憲兵隊本部に連れて行かれました。オーシャン道路の入り口に、YMCAがあり、そこが憲兵隊本部になっていました。そこで193日間拷問を受けました。3メートル×4メートルの部屋で、連日拷問を受けたそうです。
シンガポールの港に停泊していた日本軍の船が何者かによって爆破され、チャンギの捕虜収容所にいた人たちがやったのではないかと日本軍は疑い、その爆破に関係していたのではないかと、取調べを受けたのです。その爆破は、シンガポールの内部からではなく、外部からの爆破ではないかとということが分かり、ようやく釈放されました。
弟を華僑虐殺で殺される
抗日活動の理由はいくつかありますが、ひとつは、彼女は、弟を華僑虐殺で殺されていることだと思います。
1942年の華僑虐殺のとき、華僑たちは、シンガポールの町の一角に集められました。女性たちは最初に釈放され、エリザベスさんは、釈放されましたが、お父さんと17歳の弟が釈放されず残されました。日本軍により、お父さんは、釈放組みに区分けされ、17歳の弟は殺される側に分けられてしまいました。弟は、「どうしてお父さんは一人でいくの?どうしてぼくを連れて行ってくれないの?」と言い、父親は、何度も息子を一緒に連れてこようとしましたが、人波におされ、離れ離れになってしまいました。あとで何度も何度もその場所に行ってみたそうです。弟とは、それが最後となってしまいました。
虐殺の場所 チャンギ・ビーチ
私の調べたかぎりでは、その時に選別された人たちは、2箇所で処刑されています。ひとつは、チャンギ・ビーチです。現在でも海岸になっているところです。ここで、トラック2台で運ばれた70人ぐらいの人たちが処刑されました。海岸に並べられ、機関銃で撃ち殺し、海に投げ込まれました。
虐殺の場所 カナベラ・ビーチ
虐殺現場は チャンギ空港のパスポート・チェックの場所だった!
そのあと、少なくとも数百人、千人以上の人たちが、カナベラ・ビーチで処刑されました。カナベラビーチは、今はないので、若い人たちは知らない。再開発で埋め立てをされてしまいました。しかし、チャンギ空港のタクシー乗り場で「カナベラ・ビーチに行ってくれ」と、もし年配の運転手に言ったとしたら、「すぐに降りろ」と言われるかもしれません。昔は、そのタクシー乗り場あたりが、カナベラ・ビーチだったからです。カナベラ・ビーチは今、チャンギ空港になっています。チャンギ空港には、ターミナル1とターミナル2と二つのターミナルがあります。シンガポール空港で入るとターミナル2に着く。アメリカと日本の航空会社はターミナル1に着く。そのターミナル1に、パスポートチェックが2箇所あります。ちょうどコの字型になっていて、その角の2箇所にパスポートチェックの場所がある。その場所が、まさにカナベラ・ビーチの波打ち際に当たります。人々が並べられ、機関銃で撃ち殺され、膝から崩れ落ちたところが、ちょうどパスポートチェックでみんなが並んでいるところだったのです。タクシー乗り場あたりもちょうど、波打ち際の辺りだったのです。
現在の地形図と当時の地形図を重ね合わせてみて分かったのです。シンガポールに入ってすぐに、そういう虐殺の現場に立つことになるわけです。そういうことが分かっているか、いないかでシンガポールに入ったときの印象はまったくちがったものになります。エリザベスさんの弟はそこで殺されたことに、たぶんまちがいはないと思います。
虐殺の地に日系企業の工場群
最近、シンガポールを歩いていて分かったことなのですが、シンガポールの東海岸に、シーフードレストラン街があります。そこは、埋めたて地です。観光的には有名なシーフード・レストラン街です。レストラン街から陸側の右側に、「死の谷」と呼ばれているところがあり、過去二千体以上の遺体が発掘されています。そこはシンガポールでも、もっとも多くの人たちが虐殺された華僑虐殺現場です。シーフードレストラン街のすぐ近くにそのような場所があるのです。今は平地に均され、元の谷に沿って、道路が通っています。その道路の西側は、工業団地で、日立、パナソニック、フジテック、よこかわ電気の四社の工場が建っています。まったくの偶然だとは思いますが、こういう場所に日系企業が集中していると知り、なんともいえない感じでした。
現地に当時の面影はありません。当時の地図と現在の地図を重ね合わせて分かったことです。シンガポールには、あちらこちらにそんな場所があります。スタディーツアーはまさにチャンギ空港から始まるのです。
エリザベスさんは、1946年、ロンドンでイギリスから勲章をもらっています。彼女は、去年9月亡くなっています。弟が理不尽に日本軍によって殺されているということが、日本軍に抵抗する元になっているのではないかと思います。
シビル・カシガスさん 拷問に屈せず
シビル・カシガスさんは、ユーラシアン(アジア系とヨーロッパ系の混血)で、カシガスという名前からするとポルトガル系かもしれません。夫が医者で、彼女が看護婦として働き、ペラ州で診療所を経営していました。
ポルトガルは中立国だったので、ほんとうは日本にとっては敵性人ではなかったのです。しかし、ユーラシアンは見た感じは白人に近かったこともあり、敵性人として、名前を登録され、外出時は、自分の名前と登録番号を書いた白と赤の腕章をはめなければならなかったそうです。
夫妻は近くに住む学校の先生に病人の診察を頼まれます。抗日軍のゲリラでしたが、病人を放っておけず、診察します。その後、夜になると、マラリアに罹ったり、怪我をした抗日ゲリラたちの診察を続けました。それが日本軍に分かってしまい、1943年11月、憲兵隊に逮捕され、そして拷問を受けました。彼女が書いていますが、「手のつめの間に針を刺す、焼けた鉄棒を足や背中に押し付けられる、平手や拳骨で殴られる、鞭で殴られる、ブーツで繰り返し蹴られる」などの拷問を受けたそうです。
7歳の娘に励まされる
彼女がマレーシアで有名になったのは、その過酷な拷問にも屈しなかったということからです。憲兵隊軍曹が、彼女に、抗日ゲリラの情報をはかせるために、憲兵隊の前に、彼女の七歳の娘を連れてきて、その娘を木の上につるしました。木の下に焼けた石炭を置き、その脇に薪を置き、しゃべらなければ娘を火あぶりにすると彼女を脅したのです。その時、その女の子は「私は大丈夫だから、お母さんしゃべらないで。死ぬときは一緒よ」と言ったといいます。彼女は、娘に励まされ、そして、大声で叫び続けました。その声に、憲兵隊の将校が出てきました。彼女を取り調べていたのは、軍曹でした。その拷問をその将校が止めてくれたのです。その後、彼女は敗戦の日まで刑務所にいました。足は拷問により麻痺して動かなくなっていました。
拷問をした軍曹も靖国に祀られている
終戦後、ペラ州の第5独立隊から人が来て、お礼を言い、できるだけのことをするからと言ってくれたそうです。彼女の聞き取りから、拷問した人たちを逮捕し、戦争犯罪人として、憲兵隊軍曹は裁判にかけられ、死刑となりました。そして靖国に祀られました。「靖国に祀られているA級戦犯が問題になっているが、このようなひどいBC級戦犯も靖国に祀られているのも問題だ。A級だけが問題なのではない」とシンガポールの人に言われたが、まさにその通りだと思います。
抗日ゲリラ活動は日本軍への怒りから
彼女はイギリスで治療を受けるが、下半身が麻痺していて、歩けないままだった。1949年に亡くなった。彼女の語ったことは、本になっている。彼女はユーラシアンであり、日本には何もしていない立場の人だった。その上、医療に従事している人だった。ヒューマニズムの立場からまた責任感から、ゲリラをどうにかしてやりたいと思い、そういう活動に加わったのだろう。
人民抗日軍は確かに共産党が組織したものだった。それに協力した人々は、日本軍の残虐行為に反発した人たちだった。
イギリスの後方工作チームSOE(Force136)で「イギリス軍が共産党組織に援助していいのか」と議論されている。抗日組織に配属されている現場のイギリス軍将校から、いろいろな報告が上がっていた。「彼らの幹部は確かに共産党員だが、そこで働く人々は、共産主義者とは限らない。日本軍から家族を殺されたリした怒りから、抗日ゲリラに入っている。ソ連の共産主義とはちがう。うまく付き合っていけば、イギリス軍は付き合っていける。だから、支援しよう」ということになった。
反日とか抗日とか、レッテルを貼り、弾圧を訴える人々を日本に対する反発としてしまう。現在でも同じようなことがある。アメリカに抵抗するものはテロリストだと言い、関係のない人たちをたくさん殺し、そういう人たちが反米となり、抗米の活動をするようになるのではないでしょうか。
抗日軍はその後、抗英、反英運動になるが、ヤップさんはそれには加わらない。ヤップさんが抗日運動に加わったのは、思想で固まっているのではなく、日本軍への反発だったと言うことがここからも分かる。
韓国「慰安婦」の墓を見つける
最近シンガポールの日本人墓地に行き、発見したことがあります。そこには、韓国・朝鮮の人たちの墓地もあります。かつて、日本の植民地だったので当たり前のことです。戦犯として処刑された韓国・朝鮮人の記念碑があるのは知っていました。今回、そこに韓国の人と一緒に行ったのですが、韓国人で慰安婦にさせられ、シンガポールで亡くなった人の名前が刻まれていたのです。韓国の慰安婦の名前が刻まれているのを今回、初めて見つけました。その人は、韓国政府の慰安婦の名簿にも載っていて、シンガポールで亡くなっているのが分かっています。その墓地で、韓国・朝鮮関係の名前はないかと見ていたのですが、今回、プレートに小さく、薄れていましたが、朝鮮の人の名前が刻まれているのを見つけました。このように、海外に連れて行かれた韓国・朝鮮の慰安婦の方で名前が残っているのが見つかったのは初めてではないかと思います。不幸中の幸いですが、戦後、慰安婦を「日本軍の看護婦」として登録したので、病院関係者としてお墓が作られ、名前が残ったのです。お墓はもうなくなっていました。もとのお墓がここにあったという場所は、確認しました。戦後61年たちますが、今やっと慰安婦にさせられた人が埋葬された場所が分かったのです。感無量でした。彼女は結婚していません。遺族としては姪が韓国にいらっしゃいます。やっとこれを報告できるのです。戦後はまだまだ、終わっていないということを感じました。戦後が終わっていないのに、新たな戦前には、絶対したくないと思います。
高嶋伸欣琉球大学教授の講演
2007年マレー半島南部、戦争の傷跡に学ぶ旅
通算34回目の高嶋ツアー
タイの12.8追悼行事に出席
今朝、バンコクから成田に戻りました。タイでは毎年、12月8日にちなむ行事がきちんと行なわれています。今回もそれを確かめるために行ってきましたが、それを中心にお話したいと思います。タイには繰り返し行っていましたが、東南アジアでは少しずつ社会、政治状況が変わっている、民主化が進んでいるということを感じました。タイは長く軍部が政権争いをやっていたが、中間層が伸びてきたということで、体力がつき、民主化が進み、もうクーデターはないだろうと思っていました。ところが、タイでクーデターがあり、民主化の状況が戻ってしまったかなと思いました。
タイでは反クーデターの動きが活発
しかし、今、タイではクーデターに対する批判が大変強い。タクシンさんが汚職をしたということで中間層は怒っている。都市部の中間層を支援するために、政治家は農民を助けていなかった。そこをタクシンさんは、農民層を助けることを上手にしていた。その農民層が、「タクシンさんの政策を継承しない軍政はだめだ」ということで、反クーデターの集会を大規模に行おうとしていて、緊張感が高まっています。現地の新聞(英字新聞を掲げながら)には、反クーデターの集会ラリーをやりながら、大規模集会をやるぞという記事が連日載っています。戒厳令がでているはずだが、バンコクはじめ、74県のうち40県で戒厳令は解除された。そうせざるをえないほど、言論界でも反クーデターの意見はどんどん出ている。国王もほんとうはクーデターは、認めたくなかったが、しぶしぶ認めたようだ。今までのクーデターの状況とは違うようだと感じました。
民主化の進む東南アジア
ヤップさんが今回、来日してくだっさったのも、その民主化の現われだと思います。人民抗日軍は、共産党の党員が幹部になっている組織でした。マレーシアでは、人民抗日軍は共産党と戦後ずっと言われてきました。そして、戦後、ヤップさんは誘われても参加しなかったのですが、抗日軍は抗英活動を行ないました。そして、イギリス軍と闘い、内戦状態を長く続けました。つい10年前までは、山岳地帯にこもり、そこは、列車が襲われたり、バスが襲われたりする危険な地帯で、旅行者などは近づけなかった。そのため、マレーシア、シンガポールには治安維持法が今もある。その国内治安維持法の弾圧の対象はまず、共産党だった。戦時中の共産党につながる人民抗日軍のメンバーだったなどと言ったら、マレーシアでは、命にもかかわることだった。警察に捕まり拷問される状況になった。だから、ヤップさんは、とても人民抗日軍の一員だったなどとは言えない状況でした。
東西冷戦がなくなり、マレーシア政府も経済的なことで中国と交流するようになり、東側諸国とも国交を結ぶようになった。今の政府を批判するようなことを言わなければ、過去のことを言っても、治安維持法に引っかからなくなりました。だから、自分の身内が人民抗日軍だったと証言をする人たちが出てきて、とうとう、自分が人民抗日軍だったと言えるようになったのです。
8.15の追悼集会でヤップさんと出会う
クアラルンプールの8月15日の追悼集会で、地元のメンバーの中に、自分は抗日軍のメンバーだったと言う人がいたのです。追悼集会後の懇親会で、その方、ヤップさんが、隣のテーブルに座っていました。お歳は80歳とのことだった。「ぜひその話を聞きたい、日本に来てください」とお願いしたら、「いいよ」といってくれた。「日本の市民グループがそういう企画をしているなら協力しよう」と来てくださった。ヤップさんは、原稿を5回書き直したそうです。それくらい、ヤップさんは話したいことがたくさんあるのです。今、抗日資料(?)のほうで、聞き取りの対象になっているので、そのテープを起こしたらまとめてみようと思っています。
そんなことを考えますと、アジアのほうでは、歴史をきちんと冷静に見つめようという方向になってきている。ヤップさんは、「戦争が終わったら、抗日軍の幹部だった共産党員に誘われても、イギリス軍との戦いには参加しない」とスパッと割り切っていますが、そういう体験を話せるようになってきているのはうれしい。
リー・クアン・ユー(シンガポール前首相)〜日本人は行く所まで行く
資料の8ページ目をご覧ください。(1991年5月5日の朝日新聞記事・シンガポールのリー・クアン・ユー前首相 「日本人は行く所まで行く」)
シンガポールのリー・クアン・ユー前首相へのインタビュー記事です。「日本の掃海艇が呉と横須賀から出港して、マニラ、シンガポール、スリランカに寄って、ペルシャ湾に入る。4月20日と9月にシンガポールに寄っている。とうとう日本の自衛隊が、本来の軍隊の任務である掃海作業のために日本領海の外に出た、戦前と同じ海外派兵のエスカレーションの第一歩が始まったが、それについてどう思いますか」と聞かれたときのインタビュー記事です。
アルコール中毒患者にウィスキー入りのチョコレートを与えるようなもの
「掃海艇でも海外派兵の第一歩になる。日本は天皇制を擁しているという事では軍国主義を払拭できていない。アルコール中毒患者にウィスキー入りのチョコレートを与えるようなもの」と彼は言っています。良いたとえ話を使っているのでよく授業でこれは使っています。
8ページの1990年5月25日の「南洋・星州」記事を見てください。
日本はいつか軍隊を持つようになる
彼はその1年前、ヨーロッパ歴訪をしたが、その時のパリでの演説でこう言っています。「日本は軍国主義を払拭できていない。だから、いつか、安保条約さえ無しにして、自力の軍隊を持つようになるだろう。核武装をするだろう。安保条約を切って、独自の軍事力を持つようになるだろう。戦後生まれの日本人が次第に権力を掌握するだろう。戦争体験のない人が社会のリーダーになったら日本は怖い。」彼は、今の日本を90年代に予測している。それが今の安倍さんだ。「日本は世代交代したらあぶない」とアジアの国々は警戒心を持っているのです。そんな中で、こういう集会をする活動は大切です。それをアジアの人たちも分かってくれている。だから、ヤップさんも協力しようと来てくださったわけです。来年もマレーシアから証言者をお呼びする計画もあるので、ぜひわたしもお手伝いをしたいと思っています。ぜひ、皆さんも予定に入れておいて下さい。
「真珠湾攻撃で戦争は始まった」と言い続けるマスコミの歴史認識
日本の状況はどうかと言うと安倍さんのようなひどいことになっている。それは政治家だけではない。飛行機の中で日本の主要新聞の12月8日の記事を読んで頭に血が上った。朝日新聞の天声人語で「65年前の12月8日の真珠湾攻撃で戦争は始まった」と書いている。朝日新聞がくり返しこういうミスをしている。我々は30年来、「コタバルから戦争は始まった」と言ってきている。教科書にもそう書くようになってきているのに、朝日新聞がまたこう書いてしまった。
02年の朝日新聞は、「真珠湾攻撃で太平洋戦争は始まった」と書き、04年の新聞でもそう書いたので、とうとうがまんできなくて、その日に抗議した。論説委員から電話が掛かってきて「アメリカとの戦争が一番だったのだからいいじゃないですか」と言った。「でも、1時間半以上も前にマレー半島で始まっているんです。それが事実なんです。事実を大事にする新聞の社説がそれで良いんですか」と言ったのだが、朝日新聞側は「訂正はしません」と喧嘩別れになった。しかし、翌年、05年の12月8日の社説で「真珠湾の前にアジア侵略が始まっていた」と書いていた。「1年かけて訂正してくれたな」と思っていたら、06年の社説がこうです。「真珠湾とマレー半島でほぼ同時に攻撃が始まった。」と06年12月8日の「写真が語る太平洋戦争」の中で、触れてはいるが、「アジア・太平洋戦争は、真珠湾から始まった」と言うイメージを読んだ人が持つような書き方をしている。読売も一面コラムでこれと同じような書き方をしている。「ジャーナリスト、しっかりしてよ」と言いたい。
みどりの日が昭和の日に
資料4ページをご覧ください。来年の4月29日から、みどりの日が昭和の日に変わります。
無断でタイ領に上陸
12月8日、日本軍がコタバルの海岸に上陸した後、タイの海岸に上陸した。独立国タイにその承認を得ないで上陸したのです。マレー半島の北のほうはタイ領です。シンガポールを攻略するため日本軍はマレー半島の東海岸に上陸した。東海岸はジャングルで行動しにくい。西海岸は整備が進んでいて行動しやすい。当時、国道一号線は、舗装されていたそうです。そのため、西海岸に出やすいタイ領に上陸しました。タイ側には話すつもりだったが、その作戦はぎりぎりまで秘密にしておかなければいけなかったので、話す前にタイ側に察知され、ビブン首相に逃げられてしまった。開戦の時刻になってしまい、作戦を実行するしかなくなり、無断でタイ領に上陸した。日本軍は侵略軍になってしまった。
日タイ戦争を語り継ぐ現地
資料の6ページ目に、1986年1月16日の朝日新聞・大阪版に「日タイ戦争 語り継ぐ現地」の記事がありますが、その中で、「12月8日に日タイ戦争をやったのだ」とあります。
日本軍はカンボジア国境から近衛師団が入る、メナウ川の河口から別な部隊がバンコクを目指し、徳島の部隊が、ナコンシータマラートなどの海岸に上陸した。ソンクラ、バタニには、広島の第五師団がシンガポールを目指して上陸した。このような作戦を実行して、日タイ戦争になった。ただし、これは戦争するつもりはなかったので、ビブン首相はすぐ停戦命令を出したので、大体は半日の戦争で終わった。しかし、プラッチュアップキリカンでは、無線機が故障して、停戦の連絡が遅れ、36時間も戦闘が続いた。
タイの人は、「日本兵の死者は412人、タイ側は42人」と言っていた。今後検証する必要はありますが、タイ側の言うことのほうが当たっている可能性があります。
日本軍の宣伝班の人が、戦闘が終わってから上陸しているのですが、彼らは、日本兵の死者が海岸にずらっと並んでいるのを見たそうです。上陸するときに兵士は重装備で輸送船から小船に乗り移るのですが、荒波の中で縄梯子を使って飛び移るときに、海に落ちておぼれて死ぬ兵士が続出したそうです。それが100や200の数ではなかったそうです。そういうことを、別の地点の上陸の様子で書いているので、ここでもその可能性があったと言えます。
日本は国際法違反!〜天皇の戦争責任
戦後、防衛庁が纏めたマレー戦線の資料でも「小競合い」とか「無血上陸」といっているが、実際には、日タイで戦争をやっているということがわかってきました。日本軍は明らかに国際法違反をした。タイ側は当然の軍事行動をやった。それだけでも昭和天皇は戦争責任があります。
7ページの資料にあるように、日本は、日タイ友好和親条約を結んでいる。その第一条は、タイの領土は侵略しないこと、第二条はタイの中立政策は侵さないことを確認する有効期間5年間の条約を結んだ。その期間中に条約を無視して、タイ領に入り、停戦命令をタイ側に出させた。その後、タイ側にこわ談判で、通行を認めなかったら、全土を武力占領すると脅したので、タイのビブン首相はやむなく日本側のタイ通行を認めた。日ソ不可侵条約の違反をよく日本側は非難するが、それよりも前に、日本は中立条約違反をしている。その責任者は天皇ですから、その事実が分かったら、東京裁判で天皇を免責し、すべての責任を東条たちに押し付けようという、アメリカと日本の合作の台本が壊れてしまう。
4.29は昭和天皇の責任を問う日に
安倍さんは、戦後の政治構造の基本を改憲などで改めたいと言っていますが、それならこっちのところも見直してほしい。昭和天皇の責任を明らかにするところまでやってほしい。「日本人は自分たちで掘り起こして、ただすんですか」とアジアの人たちは見ているのです。タイの人たちはそろそろ言い出すだろうと思っている。政府がやらないなら、市民グループでやりましょう。2.11の紀元節反対集会を前の世代の人たちがやってきてくれている。4.29をぜひ、若い人たちを中心にして、昭和天皇の責任をあらためて問う日にしてほしい。そういうことを提案したい。
「今なぜ昭和の日」集会のお知らせ
タイは今も記憶している!
プラチュアップキリカンというところではびっくりしました。花輪が150ぐらい来ていました。景気がよくないので去年より減ったとそこの人たちが言っていたが、非常に盛大な追悼行事です。国軍の司令長官も来ていました。基地の中に立派な戦争資料館ができている。軍によって戦争資料館が整備されているとは、思いも寄らなかった。日本軍と戦った元タイ軍の七,八人の人たちとお会いしました。話したいことは山ほどあるということです。その人たちの話を聞きに来年の二月か三月には行きたいと思っています。マレーシア、シンガポールと合わせてタイのほうも探っていただきたい。いろいろな材料を集めてアジアの人たちに顔向けができるようにしたいと思います。ヤップさん、今日はありがとうございました。
ヤップさんへの質問
日本と戦争する前は、マレーの人々は日本をどう評価していましたか?
戦争前に既に我々の近くに日本人はいました。商売をしたりしていました。その時はうまくいっていました。マレーシアには、マレー人、中国人、インド人、ユーラシアンの四民族がいて、みんなはかなりうまくやっていて摩擦はなかった。
村を焼き払ったりしたときの日本軍は日の丸の旗を掲げていましたか?
日本軍が来たときは日の丸はいっぱいあった。村を焼き払ったのは、わたしは見たことはない。わたしの家が焼き払われたとき、父親と一緒に、村の外の田んぼにいたので、見ていません。当時は日本軍のそばにはなるべく寄らないようにしていたので、私には彼らの様子を答えられません。
抗日軍になった人たちの年齢は幾つぐらいでしょうか?
若い人が多かった。16歳から20歳前後、もちろん40歳ぐらいの人もいました。私はその時16歳でした。公式には私は79歳ですが、二年間、出生届を遅らせて出したので、実際は81歳です。
抗日軍の指揮系統はしっかりしていたでしょうか?
待ち伏せなどの作戦の前は、リーダーがよく話し合う。日本軍に待ち伏せされたりしたときは、その時のグループのリーダーに従った。
お兄さんが亡くなったあと、その奥さんやお子さんは行動をともにしたのでしょうか?
一番上の兄が殺された後、生活が苦しくなり、その奥さんと子どもは、奥さんの実家に帰りました。その町のほうが安全だったこともある。私が部隊に参加している間のことはよくわからない。
戦後の生活は苦しかったですか?
何もかも壊されてしまい、物もなく、苦しかった。それは日本側も同じだと思うが。
バナナ札・軍票は交換されたでしょうか?
バナナ紙幣は使えた。イギリスのトラの紙幣は秘密にしていた。戦争が終わってからは軍票はちり紙になった。軍票を村の人たちはたくさん持っていたので、経済的に大変だった。
【ヤップさんのお話】
今までの話はつらい話だったが、今はマレーシアと日本はうまくいっている。皆さんマレーシアに来てください。おいしい果物もあります。高嶋先生のツアーも歓迎します。いつでも協力します。どうぞおいでください。ありがとうございました。
アジアフォーラム横浜事務局長 吉池俊子挨拶
私たちの集会においでいただきありがとうございました。今回で13回目になります。今までは日本軍による被害を語る集会でしたが、今回は初めて抗日軍としての経験をお聞きする会でした。抗日軍と言えば勇ましく、果敢な姿を思い浮かべます。しかし、やむを得ず戦ったのであり、できるだけ早く抗日軍であることを辞めたいと思うような厳しくつらいものであったことが、ヤップさんのお話から分かりました。日本軍に直接被害を受けた方だけでなく、戦った側にも、日本の侵略戦争というものは非常に悲惨なものであり、平和な家庭を無残に壊し、戦わざるを得ないそういう戦いを引き起こすものだと分かりました。
13回の集会を通して分かったことですが、戦争と言うものは自然に起こることではなく、作り出されるものではないかと思います。十五年戦争も満州事変のやらせで起こされたものです。
世界を一変させている9.11は、アメリカで再調査されています。アメリカの著名な弁護士さんが中心になって、400名の方が、大統領に訴訟を起こしています。ペンタゴンに飛び込んだ機体はどこに行ったのか、建物に開いた穴と機体の大きさの食い違い、ツイン・タワーの崩落の仕方などが、命がけで究明されようとしています。もしそれがやらせだったら、世界の人々にたいする言葉にできないような不法行為ではないでしょうか。
しかし、足元を見ますと、教育基本法の改訂にかかわるタウンミーティングがやらせで行なわれています。これも戦争につながるやらせではないかと思わずにはいられません。それらに対して、私たちはどう抗していったらいいのでしょうか。やはり、戦争の体験者に戦争の事実をしっかりとお聞きし、その事実を受け止め、その記憶を力にして、私たちができることを行動に移すということではないでしょうか。改めてヤップさんのお話を聞き、その思いを新たにしました。ヤップさんは日本に来ることをためらわれた時期があります。日本は来るのをためらうような国になっています。そんな日本にしてはいけないと思います。ヤップさん、今日は、ほんとうに勇気ある証言をしていただき、ありがとうございました。
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