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1997年証言集会 蕭文虎さんの証言報告集より
1997.12.6 アジア・フォーラム横浜証言集会にて
パリティンギに避難するも日本軍が来る!
私は、ネグセリンビラン州クアラピアの町の近くのパリティンギ村で家族を日本軍によって殺されました。私自身も7ヵ所、日本軍の銃剣の傷痕があります。当時私の家族は、父、母、私、弟、妹はクランという町にいました。クランはクアラルンプールの西の方のマラッカ海峡に面している町です。その町は交通の便が良い町なので、日本軍が入って来るかも知れないと心配した父は、交通の便のわるい、パリティンギに移りました。
食糧配給とだまされ、広場に集められる!
戦争当時食糧が少なくて困りました。米はすべて日本軍から配給されていました。当時、パリティンギには1000人ほどの人がいました。虐殺事件のあった日の前日に、「明日、食糧を配るから、家族全員集まるように。全員集まらないと人数分の食料を渡さない」と日本軍から言われました。
次の日のお昼ごろ、日本軍に言われて、家族全員が麻袋を持って、町の広場に集合しました。父、母、私、弟、妹は、揃って大事なお米を待っていました。母は妊娠していました。
小さなグループに分けられ、虐殺はじまる!
日本軍が2台のトラックで来ました。日本軍は、広場に集まった人たちを小さなグループに分けていろんな方面へ連れ出しました。わたしは父と母と同じグループでした。日本軍は、住民たちを小さなグループに分けてから連れ出し、コントロールしやすくしました。私のグループを見張っていたのは、4名の日本兵でした。変だと思った若者が逃げ出しました。しかし、すぐに日本兵に捕まって殺されました。私のグループは十数人いました。日本兵は4名だけでした。しかし、父親はじめみんな素直な人たちばかりだったので、誰も逃げようとはしませんでした。みんなは日本兵に「許して」と言いましたが、聞いてもらえませんでした。その場所で、あっという間に、ひどい場面が、目の前で起こりました。4人の日本兵が前に並んだ人たちを銃剣で刺し殺し始めたのです。この場面は、何十年経った今でも私の頭の中にはっきりと残っています。あっという間に幸せな家族が崩れ去りました。
母が私の体に覆いかぶさる!
私自身も7ヶ所ほど傷を受けました。今生きているのは母のおかげです。私を抱いて地面に倒れて覆い被さってくれたので、母の体を突き抜けた分、私には深く刺さらなかったのです。目の前で、愛している父、母、弟、妹を銃剣で刺し殺されたのですよ。とても悲惨な場面でした。今、私は64歳ですが、その時のことをはっきり覚えています。腸や血が流れ出した悲惨な現場。その現場のことは、いくら言っても、皆さんには伝わらないと思います。
私は、こういうふうにやられてから、どうやって逃げようかと思いました。日本兵は、本当に死んでしまったのか、確認しにもう一度戻ってきたので、私は本能的に死んだふりをしました。本当に幸いなことでした。日本兵に銃剣で刺されましたが、母は、私を抱いてくれたままだったので、銃剣は、まず母の体を突き抜け、私に届きましが、致命傷にはなりませんでした。
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