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アジア・フォーラム横浜
李さんの証言を聞く会
1942年2月、日本軍はわずか2ヶ月でシンガポールを陥落させました。そして大規模な華人虐殺=「大検証」を行い、何万人ともいわれる華人を虐殺しました。さらに抗日運動をしている者を捕らえては、詰問・拷問をして多くの人を獄死させました。わたしたちはこの両方を体験した方と出会い、そして当時のことを初めて証言していただくことになりました。
李さんは少年の頃、前を歩いていた老人が日本兵に敬礼しなかっただけで、その場で射殺されるという、衝撃的な場面に出会いました。そして「大検証」、電気ショックなどのの拷問…。わたしたちは李さんの証言を聞くことで、日本軍が何をしたのか、なぜそのようなことをしたのかを掘り下げたいと思います。そして、証言をどう受け止め、どう生かすか皆さんと一緒に考えたいと思います。
この集会は、2001年12月7日,
かながわ県民センターで行われました
証言:李樺卓さん
(シンガポール)
講師:林博史さん
(関東学院大)
呼びかけ人(50音順・敬称略)
石山久男(歴教協事務局長)・信太正道(厭戦庶民の会)・高嶋伸欣(琉球大・高嶋教科書訴訟原告)・俵 義文(子どもと教育ネット21事務局長)・西野瑠美子(ルポライター)・林博史(関東学院大学)・前田 朗(歴史の真実を視つめる会)・松井やより(「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク代表)・本間 昇(神奈川歴教協)・渡辺賢二(神奈川歴教協)・矢口仁也(中国人戦争被害者の要求を支える会)
シンガポールで何が起きたのか??
1941年12月8日、真珠湾攻撃より1時間余り早くマレー半島に上陸した日本軍は、イギリス軍の要衝・シンガポールを狙って南下、2月15日には陥落させます。すると上記の目的のため華人虐殺=「大検証」を行います。これにより、文部省の検定でも4〜5千人、現地では4〜5万人とも言われる犠牲者が出ました。日本軍は「大検証」に際し、短い時間で抗日分子を見分けることができないため、その判断は現地に任され、「メガネをかけている人や、教員・銀行員はインテリだから抗日」「列の前から5番目の者は選別」といった理由で処刑された人も数多くいたのです。日本軍はこの後、マレー半島を北上しいわゆる「敵性華僑狩り」を行っていきました。
日本で聞く初めての「大検証」の様子…
なぜ、証言者とめぐり会えたのか
アジア・フォーラム横浜では主にマレーシアでの華人虐殺を生き延びた方の証言をうかがってきました。さらに、シンガポールで行われた華人虐殺=「大検証」の体験者を探してきましたが、なかなか日本で証言してくださる方が見つかりませんでした。そこで現地に広告を出すなどしてようやく、今回の証言者にめぐり会うことができたのです。お会いした李さんは「大検証」の経験だけでなく、その後の抗日運動から日本軍に拘束され拷問まで受けていました。日本で初めて伺うことのできる貴重な証言です。
第二次大戦の証言をする機会を与えていただき、感謝しています。私は1926年生まれ、今度76歳になります。シンガポール生まれのシンガポール育ちです。
1946年2月当時、私は16歳でした。ある日、ラベンダー・ストリートを歩いていて、日本兵に挨拶しないおじいさんが銃撃されたのを目の当たりにしました。おじいさんは血を流して、もうピクリとも動きませんでした。子ども心に激しい怒りを感じました。この出来事をきっかけに私は抗日の気持ちを持ちました。日本軍が来たら幸福になるかもしれないと思いましたが、その気持ちは幻滅に変わったのです。
あの「大検証」の経験
当時私は、タンジョン・パガーに住んでいました。成人男子の全てが家から出され,道ばたに並べられました。私も列に加わりました。30分ほどで続々と人が並び始め、長い長い列となりました。みんなが並べられた列の前にいすがあり日本人と思われる者が、二人ずつ机の前に座り、並んだ者は一人ずつ顔見せをしました。『検』を押す、押さないの区別はどこにあったかわかりませんが、通訳が何か言うと押されていました。
二人の男が首を横に振ると不適格人間とされ、別の場所に連れて行かれ、二度と帰って来ませんでした。そのとき彼らが『検』の字を押すか押さないかで、シンガポール人の命は右と左にわかれてしまいました。彼らは私たちの命を虫けら同然に扱ったのです。
私の番が近づいてきました。しかし私は何も聞かれませんでした。服の首の後ろの部分、襟首に印を押され、すぐに行かされました。私はそれで帰宅しましたが、隣家の人が、「あの人達は軍の車に乗せられて、どこかに行ったわよ」と聞きました。
抗日組織に加入、そして逮捕
家族は父と三人の兄弟で、自分は一番下でした。母は9歳のときにいなくなっていました。日本軍が来るとわかると、一番上の兄はマライに行った。父と二番目と私はシンガポールに残りました。そのうち次兄がシンガポールの抗日組織のメンバーであることがわかりました。「うらやましい」と言ったら、活動をしている人を紹介してくれました。
ある日、仕事が終わって帰り、家の2階に昇ろうとしたら、狭い階段のところで突然5〜6人が、私を囲み手を押さえて引っ張って連行しました。彼らは日本軍の私服刑事、後で聞いたら憲兵隊で、一言も発せずに私を連行したのです。
「拘留所」での拷問
拘留所では、日本兵がまずコーヒーを飲み、「聞きたいことがあるから、はっきり事実を言った方がいい」と言われた。私が何も言わないと刑具が使われました。私の知っている組織や人の名前を言ってしまえば、その人達は逮捕されて殺されてしまうだろうから、「何も知りません」と繰り返しました。「日本軍に協力しなさい。そうすればいい待遇で苦労しないぞ」とよく懐柔された。しかし私は答えませんでした。すると今度は両手の親指に電気線を巻かれたのです。答えないと電流を流されました。電流を流されると、指だけでなく、全身に衝撃が走るのです。
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